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『ナボコフ全短篇』を読む日記2022.02.14(22/68篇)
「けんか」「チョールブの帰還」(ともに1925年)を読む。読み始めは重くて持ちにくかった『ナボコフ全短篇』が今では不思議と持ちやすく思え、セカンドバッグのような気持ちで片手でも安心してつかめる。
「けんか」は、海水浴をする「私」の隣にいた居酒屋の主人と、その娘と付き合っている電気工(と思われる)男との喧嘩の一幕をスケッチしたものである。
前の日記にも書いたのだけれど、ナボコフ作品には時々優れて絵画的なタッチの描写がなされることがある(と思われる)。この「けんか」もそうで、実際、トップ画に載せたブリューロフの『ポンペイ最後の日』という絵画(『ポンペイとエルコラーノの壊滅』というジョン・マーティンの描いた作品もあるので、本当にこの絵かどうかは定かではないが)に喩えられた場面もある。
最後にその居酒屋に行った晩は、私の記憶では、蒸し暑く、いまにも雷雨が襲ってきそうな晩だった。やがて風が激しく吹きはじめ、広場の人びとも地下道の階段めざして走り出した。外の灰色がかった暗がりでは風が、『ポンペイの崩壊』の絵のなかでのように、人びとの服を引きちぎろうとした。(「けんか」加藤光也 訳)
ナボコフ(1899年生)のちょうど一世紀前に生まれたブリューロフ(1799年生)は、ロシアで初めて国際的な名声を得た画家であって、『ポンペイ最後の日』は、プーシキンとゴーゴリも評価していたらしい。「けんか」の末尾にはこうある。
この出来事で誰が間違っていて誰が正しかったのか、私にはわからないし、それを知ろうとも思わない。物語に別な展開をたどらせて、娘の幸せが一枚の銅貨のために台無しにされたことを同情を込めて描いたり、エマが一晩じゅう泣いて過ごし、明け方近くに寝込んでから、夢のなかで、彼女の恋人を殴るときの父親の狂ったような顔を再び見たことを描いたりすることもできただろう。が、ひょっとすると、大切なのは、人間の苦しみや歓びなどではまったくなくて、むしろ、生きた肉体の上での光と影の戯れや、この特別な日の特別な時間、またとない独特な方法で集められた些細なことがらの調和のほうなのかもしれない。(「けんか」加藤光也 訳)
「人間の苦しみや歓び」といった、物語の人物の内面性よりも「生きた肉体の上での光と影の戯れ」という絵画的な描き方の方が重要視されているように思われなくもない。ここではストーリーというよりも、スナップショット的な、「特別な日の特別な時間」という一瞬間を定着させる画面が、そしてその画面上の「調和」が大事と言われているような気がする。
「チョールブの帰還」は、妻と共に家を出たチョールブという男が、妻を亡くして帰還する話。チョールブは妻との新婚旅行の道程を辿り直して、最初に止まったホテルに帰ることになる。
バレンタインデーということもあって、妻がチョコを作ってくれた。ムースとショコラだった。
付き合ってから毎年チョコを作ってくれて、毎年美味しい。今年は特に美味い、と毎年思っている。チョールブみたいにとり残されたくないと今年は「チョールブの帰還」を読んだので思った。
高橋康也さんの『エクスタシーの系譜』を読んでいて、「愛」と「死」について考えざるをえない。多分、チョールブはこのあと死ぬんじゃなかろうか。
自分はきのこの醤を作る。油が多いということを除けばまあまあの出来。これは『孤独のグルメ』に出てきたやつで、きのこ「の」醤の「の」の部分が気に入ったので作ってみた。多分きのこ醤だったら作っていない。
※トップ画はhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%B3%E3%83%9A%E3%82%A4%E6%9C%80%E5%BE%8C%E3%81%AE%E6%97%A5_(%E3%83%96%E3%83%AA%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%AD%E3%83%95%E3%81%AE%E7%B5%B5%E7%94%BB)による。