書けない理由を探しては
書けない理由をいつも探していた。
たとえば、文章下手だし。構成下手だし。言葉が出てこないし。頭、麻痺っちゃうし。書きたいこと頭の中から消えちゃうし。思い出しても、誰かが言っていることだろうし。言ってなくても、やっぱり伝わらないだろうし。誰かを傷つけるかもしれないし。そもそも誰も興味ないだろうし。などなど。
実業家も書く。芸人も書く。音楽家も書く。学者も書く。歌人も、写真家も、会社員も。皆様一様にわかりやすい構成、読みやすい文章、ハッとするアイデアに満ちていて、この大エッセイ時代にあって、「自分」が何かを書き、そして公衆の面前にさらす(あるいはさらされもしない)ことに何の意味が? と考えずにはいられなかった。
それでも何か思うところがあるのだろう、パソコン開き、Wordを開き、やあ! と書こうとすることもあるが、そのうちのんべんだらりと手が止まり、やがて頭も止まっていく。ツイッターに手が伸び、ユーチューブに目が留まる。
そして、「あーやっぱり書けないんだなあ」と思い、最初に列挙したようなことをぽつぽつ数えて、自分で自分を納得させる。そうして「書くより読むだな」と本を消費して、寝る前にはたと考える。
「こんな自意識過剰なことをぐるぐる考えるくらいなら書かんでもええかな。誰かが書いてって頼んでいるわけじゃないし」
この魔法の言葉はてき面で、僕は「書けないこと」に悩むことなく、簡単に眠りにつける。
これまで、そういう「書かない理由」を探し出すことが何度もあった。
(今も出てくる。誤字をしたら恥ずかぢい。的外れなことを言っていらた悲しい。そんな考えを見せ消ちながら書いている)
「書きたいな」という思いだけは、自分の腹の底にあるのに、それが口から、あるいは手から出てくるまでに、羞恥心だの劣等感だの色んな理由が引っついて詰まってしまう。あわてて呑み込んで、また腹の底に戻す、戻す、戻す。
そういう考え方を振りきろうとしたこともあるにはある。
たとえば、「自分のために書けばいい」。だが、そんなある種の開き直りを、僕は自分には許せなかったし、それで納得できるとは思えなかった。
それから、「別に下手でもやりたいことをやればいい」。首肯して書きかけても、やっぱり下手ということがどうしても意識されてきて、スンと冷えた心になる。
けれども、それらが「書けない理由」ではなく、「書かない理由」であり、それを「書けない理由」として処理することで、一時的に自分をだまくらかしているということは、結局のところわかっていて、わかっていることが嫌だった。だからまたぐるぐる考えだまくらかして(以下ループ&ループ)
――さて、こんなふうにさんざん言い訳を作って、それでも書こうと思ったのはなぜか。
それは、言葉にしないことで手放してきたものがあまりにも多かったからだ。
十代より三十代が近くなった自分の、少ないけれども本を読み、経験し、そして考えてきたことの蓄積を数えてみると、あまりにスカスカで首をひねらざるをえなかった。
それから、それはきっと、そういうことを言葉にすることなく、消費して、自分のなかに残してこなかったということなんだろうということに気づく。それはとても嫌なことだった。
言葉にならず、記憶にすらならず、手放してきたもの。そういうものを取り戻すことはできないけれども、せめて、これからは。それが「書く理由」となった。
「書く理由」があれば、「書ける理由」も見つかってくるものだ。
文章がうまい人は、ずっと書いているから上手で、構成がうまい人はちゃんと頭を使っているから上手。
言葉が出てこないのは書こうとしてこなかったから。頭が麻痺するのも、言葉が消えてしまうのもそう。
誰も言っていないことじゃないと書く意味がない、というのはその通りだとは思うけど、この世のすべてを知っている人なんていないし、妥協。
伝わると思うことが思い上がりで、伝わらないことの方が多いだろう。
人を傷つけないことは、最大限努力すべきことで、努力もせずに怖がるのなら、本当に書くのをやめるべきじゃない?
誰も興味ないだろうってのは、手放さないために書くのだから、もう気にしなくていい。
そもそも「書く」ことにいちいち理由を求めるもんじゃないんだな。
こうして僕は書くこととなった。書いてみればあっさりとしたもので、楽しかった。みんなこんな楽しいことしてたんだなあ、と今さらながら思わずにはいられない。
(続く)