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『ナボコフ全短篇』を読む日記2022.02.09(16/68篇)
「雷雨」「ドラゴン」(ともに1924年)を読む。1924年のナボコフはすごい。
どちらも非現実的な話。「雷雨」では預言者イリヤがベルリンに落ちてきて、「ぼく」と一緒に車輪を探す。幻想的な語りで壮麗な情景が描かれている。また、
家に帰ると、風が部屋の中でぼくを待ちうけていた。(「雷雨」毛利公美 訳 以下同様)
目を覚ましたのは、夜がばらばらに壊れはじめたからだった。
など、印象的な比喩が散りばめられている。サイファーを読んで美術と文学の関係を考えているからかもしれないが、次の引用などは映像が鮮明に浮かび、言葉から圧力を感じる。それはたとえば絵画の、塗りこめられた絵具や色調から受ける印象に似ていた。
いまその中庭では、息詰まるような夕闇がふくれ上がりつつあった。しかしそのとき、中庭の深みへとなすすべもなく後ずさっていた盲いた風が、再び上のほうへ手を伸ばし始めた。そして突然、風は視力を取り戻して舞い上がり、向かいの黒い壁に開いた琥珀色の穴の中でいくつもの腕や乱れ髪のシルエットが右往左往して逃れようとする窓枠を捕まえ、大きく音を響かせて固く窓を閉めた。窓の明かりが消えた。次の瞬間、轟音がなだれ、遠雷が動き出し、暗紫色の空を転がり落ちていった。そして再び、すべてがひっそりと静まりかえった。
言葉が本当の意味で”効果的”に使われている。言葉のひとつひとつが絵具のように頭の中のイメージに色彩を塗りつけていく。もちろんサイファーを読んだからそう思われるだけなのだろうけど。
「ドラゴン」は、コミカルなファンタジーで、言われなければナボコフが書いたとは気づかないような題材だ。叙事詩『ベオウルフ』のパロディらしい。そこで殺されたドラゴンの息子が、千年の引きこもり生活を経て、現代に現れるという筋だ。皮肉が効いていて、これも面白い。ドラゴンの描写が秀逸。
この日はいろんな本を読めたし、珍しくうまくいった一日だった。なかでも、小島信夫の『私の作家遍歴』がよかった。以前から読もうとして図書館から借りていた。
音読したのだが、それがよかった。基本的にあまりしゃべらない日中を過ごしているので、最初は声を出すとゼイゼイ声になって苦しかった。だけれど、しゃべりなれてくると、小島信夫の文章の読みにくさや引用されるハーンの文章の心地よさを楽しめるようになる。
最初は読みながら話を理解することができなかったが、だんだんと読みながらでも情景が浮かんでくるようになる。これは続けてみたい。