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『ナボコフ全短篇』を読む日記2022.02.16(26/68篇)
「おとぎ話」「恐怖」(ともに1926年)を読む。
「おとぎ話」は、もてないエルヴィンという主人公が妄想でハーレムを作っていて、偶然出会った悪魔がそれを叶えてくれようとする話。正直あんまりかなというところだけど、注釈でナボコフが言うように、老いぼれたハンバート(ロリータの主人公)がニンフェット(ハンバートが9歳から14歳の少女を指すとして用いている言葉)に付き添っているという描写があることは注意しておくべきなんだろう。ちなみに『ロリータ』は1955年に刊行されている。
でも「恐怖」のほうが好きだった。「恐怖」は、「私」が鏡に映った自分や他人や世界が誰かあるいは何かわからなくなったり、死の前触れを味わった時の恐怖について語る話である。
これもナボコフが言っていることなのだけど、「恐怖」はサルトルの『嘔吐』に先んじた作品であるらしい。
この短篇が多少それと思想的な陰影をともにしているとはいえ、あの小説の致命的な欠陥はけっして共有していないサルトルの『嘔吐』に、これは少なくとも十二年先んじていた。
「この短篇」「それ」「あの小説」「これ」と指示語が多くて何が何だかわかりにくいが、多分サルトルの『嘔吐』と思想的という意味で似たところがあり、先んじていたんだろう。
残念ながら『嘔吐』は未読だが、なんとなく『嘔吐』っぽいなというところはある。
さて、眠れない夜のために心身をすり減らした私が、たまたま訪れた町の中心に歩を運んで、家や木や自動車や人を眺めたその恐ろしい日のこと、突然私の精神は、それらを「家」、「木」などとして――ふつうの人間生活と結びついた何かとして受け取ることを拒んだのだ。世界と私とをつなぐ糸はぷっつり切れ、私は私自身で存在し、世界はそれ自身で存在して、その世界は意味を欠いていた。私はあらゆるもののあるがままの本質を見ていた。(「恐怖」諫早勇一 訳)
なんとなく実存っぽい。
『エクスタシーの系譜』を読み終わり、それがロマン派の「対極の和解」(例えば「多と一」「自然と人間」「世界と私」といったものの和解)の試みについて触れていたので、ナボコフの「恐怖」もそれ以後に断絶していく世界と私、多と一という問題系の中でとらえられるんじゃないかと思った。
とりあえず『嘔吐』を近いうちに読んでおきたい。