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『ナボコフ全短篇』を読む日記2022.02.19-20(32/68篇)

「オーレリアン」(1930年)「悪い日」(1931年)を読む。

「オーレリアン」は昆虫の標本を収集している男が、海外の蝶を捕まえに行きたいと思っていて、、、という話。タイトルでもある「オーレリアン」とは、古い言葉で黄金を意味し、蝶の黄金のさなぎから転じて「蝶を愛する人たち」を示すようになったという。

「悪い日」は、トルストイに代表されるロシア作家の「子どもの発見」文学とやらに連なるものだと思う。主人公は、ピョートルという名の内気な少年で、コズロフ夫人の長男ウラジーミルの命名日のお祝いに家族と屋敷に来た。そこで他の客の子どもたちと関わることになるのだが、ピョートルはそれが嫌でしかたないようだ。

子どもを描いたものの多くがそうであるように、この物語にも、主人公をいじめる子どもと、主人公が好ましく思う子どもがいる。前者はいとこのヴァシーリイ・トゥチコフで、後者はコルフ男爵の妹ターニャだ。短篇のわりに登場人物というか出てくる名前が多い。そしてまたよくある話で、主人公ピョートルは、ターニャに避けられてしまう。

「コケモモの実、もっと欲しくない?」ピョートルがたずねた。
彼女(ターニャ)は首を横に振るとリョーリャを横目で見て、ふたたびピョートルの方に向き直るとこうつけくわえた。「リョーリャもわたしも、もうあんたとは口をきかないことにしたの」
「でもどうして?」ピョートルは苦しそうに顔を赤くしてつぶやいた。
「だってあんたは気取り屋さんだからよ」とターニャは言葉を返し、またシーソーの上に跳び乗った。ピョートルは、並木道の端にあるもぐらの穴を調べるのに夢中になっているふうをよそおった。(「悪い日」貝澤哉 訳)

なんとなく自分の子ども時代にも覚えがあることで、ピョートルと一緒に悲しくなる。このような記憶とは反対に、トルストイの『幼年時代』などでは、幸せな子ども時代の発見が文学たり得たらしい。

ロシアに「子供時代」はあった――それは何よりも文学的トポスとしての子供時代であり、それはアリエスが子供を発見したのと同様に、ロシアの作家たちによって発見されねばならなかった。
近代ロシア文学の歴史のなかで、「子供時代」を発見したのは、トルストイだった。彼の『幼年時代』は一八五二年に発表され、みずみずしい感性をもった新人作家を鮮やかにデビューさせた文字通りの処女作である。当時トルストイはまだ二四歳。ニコーレンカという主人公の一〇歳の誕生日から、彼の少年時代を回想したこの中編は、地主貴族としてのトルストイ自身の幼い日々の記憶に裏打ちされた、多分に自伝的な作品として知られるが、それは同時にそれまでのロシア文学が知らない「子供時代の神話」とも言うべきものを決定的に形づくる原型ともなったのである。批評家チェルヌイシェフスキーの有名な評言を借りれば、ここでトルストイは若き「魂の弁証法」を、「内的独白」の手法を駆使しながら描き出し、繊細な心理描写と抒情的な風景描写を優美かつ簡潔な文体で織り合わせ、裕福な地主貴族の幸せな子供時代を提示したのである。それは喪失や別離の痛みも伴う切ないものであもあるが、その切なさも含めて、幸せなものだった。語り手はこんな風に呼びかけているほどだ。

幸せな、幸せな、取り戻すことのできない幼年時代! どうしてその思い出を愛さずに、いとおしまないでいられるだろうか? その思い出は私の魂を爽やかにし、高め、私にとって最良の喜びの源泉となる。

アメリカの研究者アンドルー・ワクテルはトルストイとのこの作品がその後一世紀近く、「子供時代」の文学的原型となっただけでなく、社会文化的テーマの源泉ともなり、ロシア文学は様々な疑似自伝小説とも呼ぶべきジャンルの実践を通じて「子供時代を求める闘い」を続けてきたことを示しているが、そうだとすれば、ドストエフスキーとチェーホフはこの「闘い」に逆の側から――つまり子供時代がいかに残酷に踏みにじられるものであるかを示すことによって――参入したとも言えるだろう。(沼野充義『チェーホフ 七分の絶望と三分の希望』・講談社・2016年)

引用によれば、トルストイに対して、ドストエフスキーとチェーホフが子ども時代の残酷さ、悲惨さ、不幸せを描く作家として挙げられている。

では、ナボコフはどうか。そもそもピョートルはナボコフの経験が反映されているのだろうか。

注釈によれば、

この物語の少年は、ほぼ私自身の少年時代と同じような環境に生きてはいるが、私とはいくつかの点で異なっていて、実際私が記憶している自分の姿は、ここでは、ピョートル、ヴラジーミル、そしてヴァシーリイの三人の少年たちに分割されているのである。

とある。もちろん、小説は小説であって作者とまるっきり一緒だと考えるわけはないけれど、ナボコフにもトルストイ、ドストエフスキー、チェーホフに連なる子ども時代を題材にした作品があるということはいえると思う。

そして、ナボコフは「悪い日」に描かれたように、トルストイのような幸せな子ども時代ではなくて、ドストエフスキーやチェーホフのような、不幸せな子ども時代を描いたようだ。

もちろん、トルストイのものは「幼年時代」であって、ナボコフのものは明らかに少年であって、トルストイの『少年時代』を読んだら、そちらの系譜に属するものかもしれないし、そもそもこういう考えが的外れなのかもしれない。

それはまあしかたないとして、ナボコフは少年を三人に分割したと言っているが、主人公・視点人物がピョートルであるのはなぜなのだろう。ヴァシーリイのようないじめっ子は文学にならないからだろうか。ヴラジーミルなどは特に出てきもしない。ピョートルの苦い思い出だけが文学になり得たのだろうか。


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