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『ナボコフ全短篇』を読む日記2022.02.15(24/68篇)

「ベルリン案内」(1925年)「剃刀」(1926年)を読む。

「ベルリン案内」は地味だけどいい。ナボコフも「単純な見かけにもかかわらず、この「案内」は私のもっとも手の込んだ作品の一つである」と言っている。正直どう手が込んでいるかなんていう説明は僕にはできないけれど、これはいい、と思った。

冒頭にはこうある。

午前中には、動物園を訪問してきた。そしていま、いつもの飲み仲間でもある友人と、一軒のパブにはいるところだ。店の空色の看板には「レーヴェンブロイ」と白く刻まれ、ビールのジョッキを持ってウィンクするライオンの絵がついている。腰をおろすと、ぼくは友人に、下水管や、路面電車や、そのほかの重要なことがらについて語りはじめる。(「ベルリン案内」加藤光也 訳)

このように、「ぼく」は「ぼく」が見てきたベルリンの案内を試みる。写実的に切り取られた場面や風景が丁寧に描かれている。読んで思わずはっとしたのが、以下の引用だ。

起動馬車は消滅したし、やがて路面電車も消滅するだろう。そして、この時代を描き出したいと望む、二〇二〇年代の誰か奇矯なベルリンの作家は、技術史博物館にでもでかけていって、古風に湾曲する座席のついた、黄色い、不格好な、百年前の路面電車を捜し出し、昔の服飾の博物館では、ぴかぴか光るボタンのついた、車掌用の黒い制服を掘りあてるだろう。それから帰宅して、過ぎし時代のベルリンの街路についての記述をまとめあげることだろう。あらゆるもの、あらゆる些事が、貴重で意味深いものとなるだろう。車掌のカバン、窓の上にかかる広告、われらのひ孫たちがおそらくは思い描くであろう、あの独特のガタガタ揺れる動き――あらゆるものが、その古さのせいで高貴なものとされ、正当化されるだろう。(「ベルリン案内」加藤光也 訳)

なんと、ナボコフが2020年代のことを予測しているではないか(あくまでも語り手の「ぼく」が、ではあるけれども)。ナボコフが百年後に思いをはせたように、ぼくは百年前のナボコフに思いをはせた。

百年前のベルリンの路面電車については、このウェブサイトに詳しく載っていた。1924年製とドンピシャである。

さて、ナボコフは路面電車の消滅を予言しているけれども、実際はどうなったのだろうか。

ウィキによれば、ベルリンの路面電車はまだ生きており、「ベルリンの市電網は現在においてもドイツ最大の規模であり、過去の部分廃止を経てもなお、世界最大級の路線網の一つでもある」。だそうである。

路面電車消滅についてのナボコフの予想は外れてしまったようだけど、2020年代のベルリンの作家で、過ぎし時代の路面電車を描き出す人が出てくるという予想は当たっているのだろうか。

現代ドイツ文学については僕はまったく知らないけれど、ナボコフと同時期にベルリンを描いた作家には思い当たった。

僕の好きな小説の五指に入る『ベルリン・アレクサンダー広場』を書いたアルフレート・デーブリーンだ。『ベルリン・アレクサンダー広場』は1927年に書き始められ、1929年に刊行された。「ベルリン案内」と同時代である。『ベルリン・アレクサンダー広場』で語られる市電というのは例えばこんな感じだ。

六十八番系統の市電は、ローゼンタール広場から、ヴィッテンアウ、北駅前、病院前、ヴェディング広場、シュテッティン駅前、そしてふたたびローゼンタール広場、アレクサンダー広場、シュトラウスベルク広場、フランクフルター・アレー駅前、リヒテンベルクを経てヘルツベルゲ精神病院前という経路だ。ベルリンの三つの交通企業、すなわち、市電、高架鉄道および地下鉄、乗合バスは運賃率協定を結んでいる。一般乗車券は二十ペニヒ、学割乗車券は十ペニヒ。運賃割引をうけるのは十四歳以下の子ども、徒弟と生徒。そのほか貧困大学生、戦傷者、歩行障害者もそうで、これらは福祉事業局の証明書を必要とする。さあ、路線系統を頭にたたきこめ。冬季期間中は前方のドアからの乗降禁止、座席定員三十九名、車両番号五九一八、お降りのかたはお早めに申し出てください。運転手に話しかけることはご遠慮ください。走行中の乗り降りは危険ですからおやめください。(アルフレート・デーブリーン/早崎守俊 訳『ベルリン・アレクサンダー広場』・河出書房新社・2012)

これだけだと何が面白いねんとなりそうだけれども、こういった市電の説明だったり、車掌のアナウンスだったり、新聞記事や広告、会話といったもの、つまり有機体としてのベルリンという都市がシームレスに丸ごと描かれているのである。そこが面白い。

そして、今さらながらナボコフとデーブリーンが同時期にベルリンにいたことに思い当たってなお面白い。二人の見たベルリンは違う形で作品となり、再び僕の読む行為の中で出会った。また『ベルリン・アレクサンダー広場』も読み返したい。どこかにナボコフみたいな人がいるかもしれないし。

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