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社会に適合するのではなく、適合する社会を見つける、つくる。

立命館アジア太平洋大学(APU)を卒業して、半年以上経ちました。
就活のときや卒業してから、会った人からAPUの学生について、

「一見変わった子が多いけど、いい子が多いよね。」
「社会の適合性低そうだよね。」
(ポジティブかネガティブかは不明。笑)

とたまに言われます。

今年6月に開かれた清家ゼミin Tokyoの冒頭で、清家先生が、

「何でこんなに学生が育つかというと、日本の社会規範が薄い環境のなかで、自分たちで社会規範をつくっていくからだ」

とおっしゃってました。

この言葉は、上のふたつの言葉の根拠を示しているようにみえます。

私はその清家先生のゼミで、私はきのくに子どもの村学園いう学校の研究していました。

そのときも、「この学校を卒業して、社会に適出ていけるの?」という質問をよくされました。

卒論でこの問いには『どのような教育が「よい」教育か』という本の論から答えているのですが、今回は別の視点から見てみます。

そもそも、「社会に適合する」とは何でしょうか。
正社員として働くこと?その社会の構成員としての義務を全うしながら、生きていくこと?
精神的にも経済的にも自立すること?

調べてみたら、「社会適合」ではなく、「社会適応」という単語が出てきました。
という訳で、ここでは、社会適合=社会適応としてとらえます!

社会適応:人間や集団が社会環境と調和した関係を結ぶことである。社会環境とは、単なる物理環境や自然環境ではなく、独自の文化や規範で構成された意味世界のことをさす。家族や仲間集団などの私的な環境、学校や職場などの公的な環境はもちろんのこと、都市や農山漁村などの地域社会、インターネットが媒介する電子空間、あるいは偶然の出会いや国民国家など、さまざまな種類や位相が存在する。諸社会にはそれぞれに期待される地位と役割があり、人間や集団はその関係に参入することで社会内における自らの正当性を確保する。そのために、そうした関係から外れるふるまいは罰や矯正の対象となる。社会が複雑に分化した現代では、期待される地位と役割も複層的であり、かつ社会間の移動や社会内の規範の変化も激しいために社会的不適応も発生しやすい。
(出典:コトバンク)

ながっ!
つまり、社会適合とは、人間や集団が、独自の文化や規範で構成された意味世界と調和した関係を結ぶことです。

ちなみに、社会不適合者の意味はこちら。

社会不適合者:社会の要求に応えて生活することが困難な者。社会に適合できない人。うまくやっていけない人。
(出展:webio辞書)

この定義でいうと、「社会の要求」ってその社会ごとに異なります。
つまり、今自分がいる社会の要求に応えられず、うまくやってけないと、社会不適合者というのです。

資本主義社会では、金や労働力をよく要求されます。それに応えて、私たちは労働力を提供します。よくあるパターンです。

その一方、「働かない」というコンセプトでセルフブランディングをしているプロ奢さんや、るってぃさんは、「どうやったら働かずに、他人の金で生きていけるかを知りたい」という社会の要求に、応えてるようにみえます。

「日本社会」などと言いますが、上の社会適応の定義にもあるように、社会環境、つまり社会とは、単なる物理環境や自然環境ではなく、独自の文化や規範で構成された意味世界のことです。

独自の文化や規範で構成された意味世界って、つまりはAPUだったら、APUカルチャー(APU文化と言うよりしっくりくる)とか。
企業だったら、社風とか職場の雰囲気とか。
鳥井家だったら、最後に帰宅した人が外の電気を消すっていう鳥井家の文化とか。

そこで、もし今自分がいる社会の要求に応えられないのなら、息苦しさで詰まっているなら、今とは違う社会に行く、もしくは今いる社会を変えればいいのではないか、と思うようになりました。

もし、今いる社会(学校、会社、地域、何かのシステムのなかなどなど)が合わないと思ったら、

1. 自分が応えて嬉しいものを今の社会でみつける

2. 自分が応えてもいいことを要求される別の社会に行く

3. 今いる社会を自分が応えたいとものを要求される社会につくり変える

この三択に尽きるのではないでしょうか。
モノの見方を変えることにも近いかもしれません。

日本社会とかっていう大きな枠組みじゃなくて、家族とか学校とか会社っていう小さな枠組みでとらえたら、どこか自然体で、深く呼吸ができて、居心地よく暮らせる社会があるんじゃないでしょうか。

こんな感じのイメージです。

(大枠が人類社会になってしまったけど、他にもありそうなので、その外側にも書いてみました。)

社会は、その社会を構成している個々人(構成員)で成り立ってるものです。
その構成員の状況が変われば、その社会の雰囲気や文化も変わります。

学校のひとつのクラスを社会ととらえてみましょう。

クラスメイトや担任の先生など、構成員次第で、部長や進路選択といったメンバーの心的状態次第で、席順などの物理的状態次第で、その「クラス」という社会は変わります。雰囲気も、文化も、向かう先も、活動も。

もし、今のクラスに対して、何か変えたいという気持ちや不満を抱いていたら、来年のクラス替えまで待つのもいいし、誰かが変えてくれるのを待つのもいいし、自分の手で変えていくのもいいですよね。

来年のクラスでは、困り感や生きづらさ、過ごしにくさを感じないかもしれません。

今の自分のクラスを、自分や他の人の手で変えていったら、自分は困り感や生きづらさ、過ごしにくさを感じないかもしれません。

反面、その変化したクラスで、息苦しさを感じる人も出てくるかもしれません。

そうしたらまた、その人が違う社会へ行くとか、その人たちも安心して暮らせるようなクラスにしていくとか。
排除と共生ですね。

つまり、自分が無理やり今いる社会に適合するのではなく、自分に合う別の社会を見つけること。今いる社会を自分が過ごしやすいようにつくっていくこと。
そっちの方が重要に思えます。

自分がある社会から排除されていると思うなら、共生できる社会に行けばいいし、共生できるように社会をつくり変えればいい。

転職して、活躍して楽しそうに過ごしている友人もいます。
私は、自分から留学先の学校の雰囲気を変えようと動いて、過ごしやすくなりました。

無理に社会に合わせようとなんてしなくていい。
自分が合うところにいけばいい。
自分が、他の人が合うようにつくり変えればいいのです。
色んな社会があるのだから。

この文で、誰かの背中をふっと軽くできたらいいなぁ、なんて思いながら。

#社会 #共生 #コミュニティ #エッセイ

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