曽祖父の話
曾祖父のキャリアは戦後の闇市で絵を売ったことに始まるらしい。
彼は、生きていれば100歳を超える大正生まれの画家だった。
私が小学生の頃、病に倒れ亡くなったが、本当に不屈の人であったと思う。
国全体が食べていくこと、生きることに必死だった時代に、なぜ画家になったのかを聞くことはもうできないが、とにかく、そこから曾祖父の話は始まる。
当時はもっぱら軍人相手に肖像画を描いていたようだった。
今実家に残っているのは、風景画や宗教画のような作品だが、これはどうやら晩年に描かれたものらしい。
晩年とは言っても最近のことではない。80代まで生きた彼の画家としてのキャリアは、50代で突然終わりを迎えている。
失明である。
病によって画家の目は光を失っていった。
すっかり見えなくなる直前まで描いていたのが、今も実家に残る作品だという話だ。
とてもほとんど見えなくなった画家の作品とは思えないほど繊細に描かれている風景。
それがどれ程大変な作業だったのか、私には想像もつかない。
完全に盲目になって以降、画家として生計を立てることができなくなった曾祖父は、なんとそこから三味線を始める。
彼の生まれ持ったセンスなのか、それとも画家としてのキャリアがそうしたのか、視覚を失ってなお、音楽という芸術に打ち込んだ。
それからしばらくして、曾祖父は三味線の教室を開く。
母に聞いた話では、音色を聞いただけで生徒が足を崩しているかどうか、姿勢が崩れていないか、そういったことまでぴたりと言い当てたらしい。
視覚に頼らない曾祖父は、階段を上る足音で家族の誰が歩いているか分かったし、発語の遅い私の発達障害を唯一疑った人だった。30年も前の田舎町に、そんなことを考える人は本当に稀有だったのではないだろうか。
光を失ったことで他の感覚が研ぎ澄まされていったのだと思う。
私が小学生になった頃、曾祖父は脳梗塞に倒れ、右手を残して他には一切動かない寝たきりの状態になった。
目が見えないため字を書くこともままならず、口も動かないため、発語ができず、コミュニケーションをとることが遂にできなくなってしまったのだ。
そこで曾祖父は手話を覚えた。今思えばあれは「指文字」という種類のものだったが、とにかく、すぐに手話をマスターし、意思の疎通は全く問題なく行えるようになったのだ。
私や、祖母が枕元で話しかけると、手を動かし話す曾祖父。
終ぞ聞くことのできなかった画家になった理由。
生きる手段として必要だったから。
そんなシンプルなことだったのかもしれない。ふとそんなことを思った。
新しく何かを始めることに一切の躊躇がなく、まるで我々が新たな道具の使い方を覚える時のように五感の欠落を埋め合わせていく作業。
なんという力強さだろう。
曾孫の私も、今では二児の母となり彼の玄孫たちは今日も元気にお絵描きを楽しんでいる。
子どもが生まれ、コロナ禍に入り、あらゆることに制限がある。
以前できていたことが何もできないと嘆くことも多い。
そんな今、私は彼の生き方を思い出すのだ。
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