みなもに想いを寄せる(創作4)
筆を持つ手は微かに震えている。彼はもう何年も筆を持っていなかった。二十年は経っていたかとおもう。
書き出しはどうするかと一瞬よぎったが、あまり気にせず、えいと筆を水面に向けた。
「つれづれなるままに」
平仮名でこう書き出すと、汀に集まる人々からは感嘆がもれた。時たま冷笑的な声も聞こえたが、気にせず書き続けることにした。
「ひぐらし、みなもにむかいて」
原文に手を加えてやや興奮したのか、少し頬が紅くなる。ここで止めてしまっては駄目だと自分に言い聞かせて、彼は続きを書く。
「こころにうつりゆくよしなしごとを」
ここはすんなりと筆を動かすことができた。だが、無心になることが出来たことでホッとしたせいか、水面が不規則な揺らぎをみせた。
人々から、アッという声が聞こえたのとほぼ同時に、水面にたゆたう文字達は散り散りになってしまい、やがて消滅した。
後には何も残らず、ただただ静かな御池がそこにある。汀に集まった人々からは、残念そうな溜息が聞こえてくる。彼自身も悔しそうに唇をぐっと噛み締めて御池を見つめていた…。