おまえはフリクリを観て真の大人になれ
よくきたな。おれはラムジェット遠野だ。おれは今からおまえに、おまえが真の男になるための話をする。タイトルを確認したおまえは既に勘づいているだろうが、それは『フリクリ』というアニメの話だ。
真の男になることはむずかしい。コナン・ザ・グレートは幼いころ邪悪なタルサドゥームに親を殺され、奴隷となって長い年月を耐え忍ぶことで真の男となったわけだが、平和の国ニッポンに生まれて既にいい年まで育ってしまったおれやおまえでは今さらコナンと同じような経験を積むのはきびしいだろう。しかし、そんなおれやおまえでも、過酷なメキシコを生き抜くための真の男の素質をみがく近道はそんざいする。そのひとつが、フリクリだ。
おれは昨日の夜、人生で何周目かになるフリクリを観終え、改めてショットガンで脳天をぶちぬかれたような強い衝撃を受け、そしておまえにも同じ衝撃をあじわわせてやるべく一心不乱に筆をとっている。「フリクリ? なんだそれは。そんなフリフリしたアニメは知らないね」おまえはそう言うかもしれない。無理もない。おれもかつては・・・といってももう10年近く前だが・・・おまえと全く同じだったのだから。
だがおまえは今日フリクリを知ることになる。フリクリとは、一言でゆえば、メキシコだ。お前は今日、真のメキシコを知り、圧倒され、真の男になるのだ。
おまえは今こそフリクリを観ろ
おれがフリクリを最初に観たのは10年くらい前だが、フリクリがこの世に存在しはじめたのはもっと前、西暦2000年だ。西暦2000年とゆう時代をおまえは想像できるか? おまえが24時間かたみはなさず握りしめてるスマッホもツィッターもまだ存在しなかった世紀末の時代だ。「とつぜん四半世紀も前のアニメを語りだすなんて、テキーラののみすぎでついにイカれちまったのか?」あらゆる情報がスマッホごしに光速で流れ去ってゆく現代社会に慣れきったおまえはそういっておれを哀れむだろう。しかし真の名作の魅力は世紀が変わったくらいで衰えないし、おれがフリクリの話をするのは、今でなければならない理由がある。
おれはこれまでフリクリについてほとんど何も書かなかったし、何も話さなかった。おれがあくせく宣伝なんかしなくてもフリクリは変わらず在りつづけ、おまえはいつかマリア様だかブッタ様だかのお導きによってフリクリと運命的な邂逅を果たす・・・あるいは、哀れなおまえはフリクリとの邂逅を果たすことなく、年をとり、結婚をし、子供と孫ができて、やがて・・・しぬ・・・。それでも別に構わないとおれは思っていた。だがそうもゆっていられなくなった。
話は変わるが、耳ざといお前はきっと2025年から新しいガンダムのテレビアニメが始まることをもう知っているだろう。知らなければついでに今知ればいい。新しいガンダムはGQuuuuuuXとゆう。uが6個も並んでいてクレイジーだが、これでジークアクスと読むんだからますますクレイジー&クールだ。クールなのは名前だけではない。アニメの制作会社は株式会社カラーで、脚本には庵野秀明がクレジットされている。カラーや庵野秀明というのが、エヴァとかを創り上げた真の男たちだということは今どきそのへんの赤ん坊でも知っている。だからGQuuuuuuuXの情報が公開されるやいなや人々は「庵野ガンダムだ」「エヴァガンダムだ」「シン・ガンダムだ」とか好き勝手ゆっている。それも別に間違いではないだろう。しかしおれが衝撃を受けたのはそこではなかった。
監督・鶴巻和哉。脚本・榎戸洋司。そのふたつの名を見たとき、おれの全神経に稲妻がはしった。見間違いかとすら思ったが、鶴巻や榎戸というファミリーネームはかなりめずらしいので見間違えるはずがないし、実際に見間違いではなかった。鶴巻和哉とはフリクリの監督を務めた真の男の名であり、榎戸洋司とはフリクリの脚本を書いた真の男の名だ。つまりGQuuuuuuuuXはもしかするとエヴァガンダムである以上にフリクリガンダムかもしれないのだ。そして、おまえがもし映画館やテレビでGQuuuuuuuuuXをリアルタイムに楽しむつもりなら、おまえがまずフリクリを観てからGQuuuuuuuuuuXを観るという貴重な体験を手にするチャンスは、今が最後とゆうことだ。だから、おまえは今こそフリクリを観るべきだ。
それで、つぎの問題は、おまえがどうやってフリクリを観ればいいかという部分になる。おまえはネットフリックスとかに毎月金を払って毎晩いろいろな映画とかドラマとかをディグっているかもしれないが、嘆かわしいことに、定額配信でフリクリを観ることのできるサーヴィスは乾燥した砂漠で千年に一度だけ咲くといわれるサボテンの花くらい稀少だ。ただ、これはおれの予想だが、これからGQuuuuuuuuuuuXの放送が近づくにつれ、プライムビデオとかが商機を嗅ぎつけてフリクリの見放題を開始するかもしれない。おまえはそれを待ってもいいが、おれはおまえにGAFAの掌の上でもてあそばれない真の男であってほしいし、だいいちおれの予想でしかないので本当に見放題が始まるかわからない。おまえはウサギがぶつかった切り株を見はり続けた愚かな東洋人のように定額配信開始をえんえんと待ち続け、しかし配信は始まらず、そのまま飢え、力尽きて、しぬ・・・そうなるくらいなら、おまえは自らフリクリを見るために動くべきだ。
おまえはプライムビデオを開き、検索欄にフリクリと入力し、検索する。そうして、おまえはフリクリが1話あたり330円でレンタル視聴できることを知る。フリクリはなんと全部で6話しかないので、全部見ても2000円くらいの計算だ。真の男になるための代償としては安いだろう。
もっといい方法もある。おまえがdアニメストアとかdmm tvとかと契約を結んでいるのなら、もう既にフリクリを好きなときに好きなだけ観ることができる。dアニメストアは毎月コロナビール1本くらいの値段でほとんどあらゆるアニメを観られるゴキゲンなサーヴィスなので、おれは会うやつ全員に契約をオススメしている。当然おまえにもオススメしておく。なんなら初月無料期間のうちにフリクリをぜんぶ観て、それ以上いらなければ1ヶ月で解約してしまえばタダですむ。ときにはズル賢くふるまうのも、メキシコで生きのこるコツだ・・・
それはともかく、こうしておまえは自らの強い意志によってフリクリを観る自由を掴みとった。あとはこの記事を閉じてドリトスとコロナビールを開けて再生ボタンを押すだけでいい。押したか? まだそこまで決心ができないとゆうおまえのために、もうすこし説明をつづけよう。
フリクリはおまえの脳をかき回す
フリクリとはなにか? これはむつかしい問いだ。フリクリなんて言葉はおまえの家の本棚のいちばん下の段に埋もれているホコリくさい国語辞典にも載っていない。ということは、フリクリとは本作に登場する何かじゅうような人かモノかを指す固有名詞なのだろうか。しかしそうはいかない。フリクリには「フリクリ」という人もモノも登場しないからだ。とはいえ全く登場しないわけでもなく、なんか登場人物たちが突然「フリクリ」とつぶやいては「フリクリってなんだよ」「しるか」などと現在のおまえとおれみたいな問答を繰り広げたりする。あたまがおかしくなりそうだ・・・だから、おまえはおまえのニューロンがショートして爆発するまえにさっさと役立たずの辞書を捨て、メキシコの荒野へ出てゆかなければならない。もちろん本当に荒野へ出るとフリクリが観られないので、ここでいうメキシコとはもっとけいじじょう的な意味でのMEXICOだ。おれはおまえに、東洋のとあるカンフーマスターの偉大な言葉を贈ろう。ドゥント・スィィンク・フィィィィル。
フリクリの主人公はナンダバ・ナオ太という小学生だ。通称たっくん。パン屋の息子で、普通の小学生だが、微妙にマセていて厭世的なところがある。残念だが、ナオ太は真の男とはゆえない。はっきりいってしまえば腰抜けのしょうもないガキだが、しかし小学六年生という年齢を踏まえればそれも仕方のないことだ。
ナオ太の知りあいにサメジマ・マミ美とゆう不良女子高生のベイブがいる。ナオ太が主人公ならマミ美はヒロインと言っていいだろう。ナオ太はマミ美に抱きつかれたり「あててんのよ」されたりキスマークをつけられたりするほど可愛がられており、おまえは腰抜けのくせにベイブとアツアツのナオ太を羨ましがるかもしれないが話はそう単純ではない。マミ美はもともとナオ太の兄の恋人だったのだが、ナオ太の兄は留学か何かでU.S.A.(=ほぼメキシコ)に移住しており、だからマミ美はナオ太に兄の面影を見て寂しさを紛らわせているような感じみたいだ。「兄貴は兄貴、おれはおれだ。ちゃんとおれ自身を見てくれよベイブ」真の男ならそんなふうに啖呵を切るかもしれないが、ナオ太はまだ腰抜けなのでそんなことは言えない。なんとなく表面上おだやかに収まっている現状を拒絶しきれず、戸惑っている。
未熟な少年と倒錯的な少女との鬱屈した関係性。これはこれで味わいぶかいストーリーかもしれない。しかし、ここにメキシコがぶちこまれたらどうなるだろうか? メキシコは突然やってくる。まるで砂漠を吹き抜ける熱風のように。
ハルハラ・ハル子。本作のもうひとりの主人公で、もうひとりのヒロインで、トリックスターだ。ピンク髪でCV新谷真弓のいかにもうさんくさい女だが、こいつは登場のしかたからしてぶっとんでいる。まずこいつは猛スピードのスクーターにのって現れる。マスタードソースみたいな真っ黄色のベスパだ。そしてそのまま一切速度をゆるめることなくナオ太を轢く。ナオ太は10ヤードくらい吹っとんで死んだように動かなくなる。こうゆうときおまえならどうする? つまり、スクーターでうっかり小学生をはねてしまった場合どうするかとゆう話だ。倒れた小学生に駆け寄り、大あわてで人工呼吸とかの救急救命措置をこうじながら、己の犯した大きな過ちをくいるだろう。当然のことだ。ハルハラ・ハル子もそうした。しかしそのあとが違った。どうしたか? 息をふきかえしたナオ太の頭をギターで思いきりぶん殴ったのだ。この女はいったい何がしたいんだ? ナオ太になんのうらみがあるんだ? ハルハラ・ハル子は極悪非道なタルサドゥームの刺客なのだろうか? おまえがそう考えたとしたら大きな勘違いで(とも言い切れないのだが)、実のところハルハラ・ハル子は真の男とゆっていい存在だ。しかし、おれはそのことについて今ここでダラダラ説明するつもりはない。それはおまえ自身の目で確かめるべきことだからだ。
ゆっておくが、おれはまだフリクリの第1話の序盤の話しかしていない。今はなしたような展開がめまぐるしい速度で進むので、実際に観ているときに「ハルハラ・ハル子は極悪非道なタルサドゥームの刺客なのだろうか?」とかゆっくり考えている余裕はない。暴走するベスパ。謎の女。激突。あついベーゼめいた人工呼吸。凶器と化したギター。濁流のように流し込まれるカオスによって、おれの脳みそはチリビーンズみたいに激しくかき回され、全身の血が沸騰し、おれの中で眠っていたメキシコが呼び覚まされる。おまえもそうなる。
フリクリはすごいアニメだ
フリクリではBGMとしてthe pillowsというロックバンドの楽曲が多用されている。『LITTLE BUSTERS』『Crazy Sunshine』『LAST DINOSAUR』『Funny Bunny』エトセトラ・・・数々の名曲がフリクリの世界をいろどり、ときには真の男の魂に火を灯し、ときには真の男の憂いに寄り添う。フリクリにとってのピロウズは、ドリトスにとってのディップソースみたいなものだ。つまり、それがないなんて考えられないということだ。
おれはときどき考えることがある。ピロウズという真の男の音楽があったからこそ、フリクリは真の男のアニメとなりえたのだろうか? それとも、フリクリが真の男のアニメだからこそ、ピロウズの音楽が似合うのだろうか? だが、こんな疑問は「エッグが先か、チキンが先か」みたいな話でまったく腰抜けで無意味だ。フリクリという真の男のアニメが在り、そこにはピロウズという真の男の音楽がともにある。その疑いようのない事実こそが重要なのだ。
そして、フリクリは映像もすばらしい。声優の演技もだ。ただおれはアニメの作画とかに正直くわしくないので、くわしいことが知りたかったらおまえ地震で調べてくれ。とはいえ素人目にみても、ふつうにクォリティがめちゃくちゃ高い。それだけにとどまらず、視聴者であるおれやおまえを一瞬たりとも飽きさせないための創意工夫や遊びごころがこれでもかとパンパンに詰め込まれている。血わき肉おどるアクション。息もつかせぬシュールなスラップスティック・コメディ。淡くも生々しいロマンス。超クールなロボットやメカニック。キャラクターの心情を濃密につたえる表情の機微。めくるめくカオス、スペクタクル、そしてロック。これらはいずれも、最高の技術と最高の情熱がなければ実現しえないものだ。フリクリはそれらすべてを実現させている。なぜなら・・・フリクリは真の男のアニメだからだ。
おまえはフリクリを知り、メキシコを知る
フリクリはマバセという架空の街が舞台になっている。ナオ太たちがすんでいるこの街は、日本じゅうを探したら似たような景色が1000000か所くらいみつかるんじゃないかとゆう、都会ではないけれども田舎でもないという感じの、特別なことなど何もない平凡な街だ。少し変わったところといえば街の中央にメディカルメカニカとかいう医療メガコーポの、どう見ても巨大なアイロンにしか見えない巨大工場が建っているくらいだ。大きな工場がある街なんて珍しくもないし、それがちょっとアイロンみたいな形だからといってなんだというのだろう? とにかく、おれが言いたいのは、ずっとマバセで育ってきたナオ太は、まだMEXICOを知らない未熟な子供だということだ。そして、このフリクリという話は、ただの子供だったナオ太が、メキシコを知り、真の男へと、真の大人へと近づいてゆく物語だ。
ナオ太はいかにしてメキシコを知るのか? 当然、ハルハラ・ハル子との出会いをつうじて知るのだ。ハルハラ・ハル子はこの平凡な街の外からやってきた。アウトサイダー。ストレンジャー。エクストラ・テレストリアル。あるいはマレビト。そうゆうたぐいの存在だ。街の外からこんなワケのわからんやつがきたとゆうことは、逆に考えると、この平和で退屈な街の外にはこんなワケのわからんやつが暴れまわっている危険で愉快でイカれたメキシコが拡がっているとゆうことだ。ナオ太はそのことを知ったのだ。
そして、おまえも知ることになる。おまえの毎日の生活は、おまえの家と、学校とか仕事場とか、あとはドリトスを買いにいくコンビニエンス=ストアーとか、そのくらいの見知った範囲で完結しており、おまえはこの世界を、変わりばえがなく退屈なものだと思いこんでいる。わくわくする冒険や危険なスリル、強大な敵とのたたかいや世界をかけた決断のなかで己の感情を爆発させる・・・そしておまえはりっぱな真の男へと成長をとげる・・・そんなメキシコてき経験は映画やアニメやペーパーバックのなかだけだと思いこんでいる。だがちがう。おまえの人生になにも特別なことが起こらないのは、おまえが何も特別なことをしようとしないからだ。どんなに偉大なホームランバッターも、バットを振らなければみんなサンキュー三振なのだから。
おれがこう話したところで、おまえはそう簡単に「なるほど、そういうことか」と納得したりしないだろう。「つきなみなゴタクだな。そのちょうしでスピリチュアルまがいの自己啓発本でも書いたらどうだ?」そんな心ない言葉をあびせるかもしれない。無理もない。なぜならおまえはまだフリクリをみていないのだから。おれがこのまま10万字や20万字かけてせつめいするより、たった全6話のフリクリを観るほうがずっとはやい。そうしたら、おれがおまえに伝えたかったこともきっとわかる。
フリクリを観ているあいだ、おまえは作品全体をつうじてあふれ出す真の男のロマンや美学や情熱に圧倒され、カオスを煮詰めた展開やろくな説明もなく飛び交う固有名詞に翻弄され、なにがなんだかわからないと幾度も戸まどうだろう・・・。しかし、最終話が終わったあと流れるエンディング曲『Ride on shooting star』のアウトロの余韻をかみしめるとき、おまえは、おまえ自身がいつの間にかメキシコを知ったことに気づく。そして、おまえがナオ太とおなじように、すこしだけ真の大人に近づいたことにも。おまえはもう腰抜けではない。おまえはバットをおもいきり振ることができる。なぜなら、おまえはもう決してメキシコを忘れることなどないのだから・・・