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清い川は流れて

 コーヒーを飲みたいと思う朝は、幸運を運んでくる。いつもより、からだと心のコンディションがいい気がするし、実際そうなのだということにしている。そして今わたしのスマホの中には、わけありのスタバのチケットが入ったままになっている。最後の一枚で、使用期限はとうとう今月末。それはお別れした元恋人が、クリスマスプレゼントのおまけみたいにくれたギフトチケットだった。

 会わなくなって数ヶ月経つのだけれど、気を抜くとまだ彼のことを想ってしまう。気持ちの切り替えが、なかなかうまくいかなかった。ずっとスマホに入ったままのチケットを、未練がましいわたしはまだ手放せない。陳腐な感傷かもしれないが、彼とわたしのことを、そのチケットだけがかろうじて完全な過去にしないでいてくれているように思えた。

 朝の家事をすませたら軽く身じたくを整え、仕事の前のウォーキングに出かける。感染症の蔓延でリモート勤務になってから、なまっている身体をすこしでも動かすために始めた習慣だ。いくつかのお気に入りコースがあり、その日気が向く方向でなんとなく決めている。よし、今日は遊歩道のコースにしよう。桜並木があって、そろそろ散り際が美しいタイミングのはずだ。

 それからもうひとつ、そのコースにはお楽しみがある。最近見つけたわたしだけの密かな楽しみ。それは、ミックスの小型犬「もこちゃん☆」(名前はわたしが勝手に付けた)をこっそり眺め愛でることなのだが、これがめちゃくちゃ癒しになっている。もこちゃん☆はいつもおじいちゃんに連れられ散歩している。よれよれのおじいちゃんとは対象的に、むっくむくなバディーで白と茶色のツートーン、毛足が長くいつでもごきげんそうにボリュームのあるしっぽをあざとく左右に振りに振って、半径3メートルをみな平等に癒やしていた。おじいちゃんのセンスであろう、いつの時代かな?と二度見してしまうようなセーターも逆に良い。もこちゃん☆は最高に可愛かった。

 今日もいつものスポットで、もこちゃん☆と飼い主のおじいちゃんが数名の愛犬家たちと交流していた。すこし遊歩道が広くなっているそこは、満開を過ぎた桜がはらはらと舞い、ほのぼのした光景をいくらか崇高なものにしていた。もこちゃん☆も頭上の桜のシャワーにはしゃいでいるのか、短い足でぴょんぴょんとジャンプしたり、急に地面に突っ伏して首やおしりをふりふりしたり、遠目から見ても今日も抜群に愛らしい様子だった。

 わたしは犬を連れているわけでもないので、なるべく不審者に思われないようまじめなウォーキング勢の姿勢を崩さない。だがその実、数十メートル手前からもこちゃん☆にロックオンし、なんとか半径3メートル以内にすべりこんで、その数秒間あますことなく癒やしの恩恵を受けようと執着している若干の不審者だった。もこちゃん☆のその匂いすら嗅ぎたい。鼻腔を広げ、ウォーキングのスピードをやや落として通りかかる。するとなんと今日はラッキーなことに、もこちゃん☆はわたしに気づき、屈託なく足にまとわりついてきた。なんてこと!未だかつてない幸せな事態である。神さまありがとう。
 その横でおじいちゃんが言った。
 「こらこらヒロくんやめなさい」

 あ……と思った。一瞬、息が止まる。
 「もこちゃん☆」は「ヒロくん」だった。それは、元恋人と同じ名で、いつもわたしが呼んでいた呼び方。

 驚きと同時に、じわじわと目頭が熱くなる。動揺を悟られまいとわたしは、ウォーキングで忙しいのでごめんなさい、みたいな感じを装って急に歩く速度を早めた。涙がこぼれる。思考が停止して、この勢いで、もうどこまでも歩いて行くしかなかった。まっすぐ、道が続いていてよかった。

 正直なことを言うとこの道も、彼と何度も通ったスイートスポットなのだった。遊歩道沿いにわたしたちのお気に入りの公園があって、去年は桜をそこで一緒に見た。あの日は4月のわりにとても気温の高い日だった。わたしたちは浮かれていて、陽気がいいのを理由に昼間からお酒を飲み、彼は暑いからと半袖になったりして、どこからどう見てもはしゃいでいた。調子に乗りすぎたのか、夜になって頭痛を起こしてダウンしているわたしに、彼が肉うどんを作ってくれたのを覚えている。豚バラとネギだけのシンプルな肉うどんはおいしかったし、なにより嬉しかった。彼と一緒にいた2年間は、そういう小さなしあわせがあちらこちらにたくさん散らばっているような日々だった。美しかった過去の記憶たちが、次から次へと思い出される。でもわたしはもう思い出すことをやめない。思考も止まらないし涙も止まらない。わたしは歩いて、歩いて、歩いた。

 ここ数ヶ月わたしを癒やしてくれていたのも、まさか「ヒロくん」だったとは。元恋人はお世辞にも愛想の良いタイプではなかったので、もこちゃん☆(いや、ヒロくんだ)とは似ても似つかないが。そんなことを考えて思わず「ふっ」と笑えた。

 気が付くと、あっという間に隣の駅だった。小さいながらターミナル駅なので、たまに乗り換えで利用するが、降りたことはなかった。ふとスターバックスが目に入る。ああ、そういえば今朝はコーヒーが飲みたいと思っていたんだった。夢中で歩いていたスピードを落とし、店の方へ向かう。自然と、もう、あのチケットを使ってしまおうという気持ちになっていた。

 カウンターには数名が並んでいた。涙を拭いて、呼吸を落ち着ける時間がある。まだ早朝の時間帯の店内は、落ち着いていて、コーヒーの良い香りがして、徐々に気持ちが凪いでいった。
 すぐに順番が来て、ホットラテの1番大きいサイズをオーダーする。ホイップをトッピングして、はちみつを5周とシナモンパウダーを振ってもらう。めちゃくちゃわたし好みにして飲み干してやるのだ。手渡されたコーヒーは温かくて、思ったよりも指先が冷えていることに気づく。

 思いがけずスパイスの効いたウォーキングになってしまったなと思いながら、甘いラテを飲みつつ家の方向へと向かう。ちょっと距離があるが、ゆっくり行こう。帰路は川沿いの道を選ぶ。

 その川はいつも、流れる水量がほんのすこしでとても穏やかなのだが、昨日のまとまった春雨のせいでめずらしく軽やかに流れていた。朝の冷たさと陽の光が清流を際立たせ、わたしの感傷をやさしく爽やかに撫でていく。ふと、つぎに出会う恋人は、豆から挽いてわたしにコーヒーを淹れてくれるような人な気がしてくる。いやきっと、たぶん、そうにちがいない。

(あかる)

(2022年4月書き出し縛りのZINE文学交換会/「コーヒー」)


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