君たちはどうかしている
引っ越し前日の夜、爆睡していた。理由は、しこたまお酒を飲んだから。わたし達はどうかしてる。
バイト先の友人から電話があったのは、まだうすら明るい夕方のうちだった。とっ散らかったまま、まとまる気配のない荷物を放り出して、わたしは自転車を漕いだ。集合場所はいつもの安い居酒屋。開店したばかりのその店に、先に着いていた彼女が陣取っていたのは、めずらしくカウンター席だった。普段しない巻き髪なんかしていてすごく似合っているのに、目は真っ赤だった。
恋人に別れを告げられた、という。失恋とは、うら若き乙女であるわたし達にとってビッグバン並みに衝撃的な事象である。彼女いわく、どうしていいかわからず、恋に破れたわけだからとりあえず美容室へ行った、でもチキンだからバッサリと髪を切ることもできなかった、ひと通り話を聞き同情した担当美容師がサービスで仕上げに髪を巻いてくれた、ということらしい。モデル志望の彼女は細身で高身長、しかもおとなしくしていても目立ってしまうような愛らしい顔面の持ち主だ。けれど、華やかな外見に相反してあまりにうぶだった。
地元の安いカラオケスナックみたいな店の、わたし達はバイト仲間だった。彼女はフリーターでわたしは大学の四回生。小さな店で同い年だったから、すぐに仲良くなった。お互いの楽天的な性格も、他人にさほど興味のないところも似ていた。バイト終わりにそのまま飲みに行っては夜な夜な終わらないお喋りをして、若者特有の余りある時間をともに溶かしていた。ついでに、彼女が振られた相手はもともとお客だった男だ。カラオケ屋なのにあまり歌うこともせず、お店の女の子と喋ってばかりいるお客だった。おまけにいわゆるイケメンだから、軽率に連絡先を聞いてきた相手に彼女はいつの間にかまんまと引っかかっていたらしい。打ち明けられ、事の顛末を聞かされていたわたしとしては、あまり信頼できなそうな相手だなと思っていたし、こうなることもなんとなく想像できていた。けれど、初めてできた恋人のことを目を輝かせて語る彼女の前で、思い切り否定することなどできなかったし、今こうやって、傷ついてしまった結末を一緒にアルコールで薄めてあげることしかできないのだった。世界がどんなに広いか知らないけれど、そういうことしかわたしにはできず、こんな夜はおのずとその不甲斐なさを噛み締めることになる。
彼のこういうところが好きだった、意外とこんなところがあるんだよ、彼といる時、あたしいつも笑ってた…。なのにどうして…?
自分を捨てて元カノを選んだらしい最低な男をまだ愛おしんで、それどころかまた自分のところへ戻ってくることに一縷の望みを捨てきれない彼女の憐れさといったら。造形的な美しさの際立つ横顔を、涙がにじむたびに何度も両手で覆い隠す。わたしはうまいことなど何一つ言えず、その小さな手のひらをとてもきれいで可憐だなと思いながらただ見ていた。
相対性理論もピタゴラスの定理も、わたしは1ミリもわからないけれど、それでも今この瞬間ここに溢れ出る感情の渦は宇宙で一番の熱量を孕んでいるに違いなかった。そして決して昇華されないその感情は、わたしと彼女で懸命に、丁寧に、そっとなぞり返さなきゃいけない類のものだった。彼女の胸にぽっかり空いたブラックホールをハッピーアワーの安いレモンサワーで満たす作業は今夜やるべき唯一のことで、それがわたし達の定理だ。
「なんか、よくわかんないけど、明日京都行くわ。東京駅から新幹線で、ひとりで。」彼女の行動はいつも突飛だし、脈絡も、たぶん意味もないのだけれど、それはとてもいいと思った。そして美容室で髪を切ることと、突発的に京都に行くことの合間に、わたしを呼び出してくれたことをあらためて嬉しいと思った。
やがて酔いが回って回って、わたし達は店を出た。3月、深夜の冷たい空気は容赦なく頬を切る。白い息を吐きながら、実家暮らしの彼女を明日限りのわが家へやっとの思いで連れ帰る。酔った頭なりに、荷物だらけの部屋に茫然としつつも、なんとかスペースを捻出し体を横たえた。すでに正体のなくなったわたし達は、あまり語ることもなく、そのまま床で毛布にくるまりながら眠りについた。
こんな夜にまともに引越し準備ができる人がいるのだとしたら、それはもう、その人がどうかしているのだろう。
わたしも彼女も間違っていて、賢くなく、すで手遅れなのかもしれないが、でもそんな日常を何の確信もないままただ生きている。
とろとろと半分だけ覚醒し、まだアルコールに浸ったままの脳みそで、ぼんやりとそんな事を考えていた。薄目を開けるとカーテン越しに、夜明け前特有の白白しさが感じられる。彼女を送り出すまでにはまだ時間があるだろう。わたしはまた目を閉じ、もう少しだけこのまどろみを続けることにした。
(2021年12月書き出し縛りのZINE文学交換会/「引っ越し前日の夜」)
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