「もう明日が待っている」感想 国民的アイドルの終わりについて
非常に遅ればせながら鈴木おさむ氏の「もう明日がやってくる」を読んだ。SMAP解散のすべてを明かすという謳い文句で話題の一冊である。
最初にかなり長くなってしまうが、この本を手にとった経緯について書いていきたい。
かつて勃発した『SMAP解散騒動』とその後のメンバー3人の独立について、個人的に非常に興味をもって報道等を見ていた。
正直、それまで特にSMAPのファンだったわけではない。彼らのテレビ番組を毎週必ず見ることもなく、テレビをつけてるときにおもしろそうなものをやっていれば楽しませてもらう程度の距離感だった。それでも、当時の多くの人がそうだったと思うが、SMAPには全体として好印象を持っていたし、国民的アイドルとして認めていた。
広く人口に膾炙したヒットナンバーの数々など、彼らが作り出すコンテンツの多くはとても魅力的だった。森君のオートレーサー転向騒動や、何度かのメンバーの警察沙汰という芸能活動の枠外のスキャンダルも含めて、平成という時代を生きた人々にとって、彼らは常に傍らにいる存在だったのは確かな事実だと思う。間違いなく彼らは芸能の世界の大スターだったのだ。
そんなときに突如勃発した解散騒動。そしてスマスマでの公開謝罪。あのとき画面に現れた何とも言葉にしづらい権力の黒いオーラ。
そういうものがこの世にないとは思ってない。ただそれを日本中の人が見るテレビの画面に映し出すことを躊躇なく選んだ権力者の強い意思に、ただの一般人である自分も画面の前でたじろいだのだ。他の多くの人も同じだったと思う。
当時、多くのメディアがメンバーの謝罪シーンを公開処刑と評した。いい言葉ではないがこの出来事の核心を的確に表した言葉だと思う。
公開謝罪後、スマスマはみるみるそのクオリティを落としていった。さっき言ったように毎週欠かさず見るようなファンではなかったが、ザッピングの途中に映る絵面からは、以前とは明らかに違うメンバーの様子が伺えた。
ズバリ書けばモチベーションの喪失。過去の映像を使った再構成の時間も非常に多くなった。もはやグループとして機能していないのは明らかだった。そしてそれも無理はないと感じていた。
あの出来事がメンバーのモチベーションを著しく毀損したのは容易に推測できるし、あれを見た視聴者の前で、楽しいエンタメを提供するスターの役割を果たし続けるのはあまりに酷だ。それだけ公開処刑のインパクトは強すぎた。
そのうち、一部メンバーの事務所退所とグループ解散が週刊誌で報じられるようになり、それはやがて正式に発表された。
解散が正式に公になっても、活動が活発になることはなかった。解散ライブやイベント等もなく、ストレートに言えばグループとしては死に体のまま年末まで続き、最後にスマスマで一曲だけ披露してグループの歴史は幕を閉じた。
日本の芸能史に比類なき足跡を残したグループの最後だったが、そこに感動はなかった。ただの節目としてのセレモニーと、メンバーたちのまちまちな表情からそれぞれの様々な心中を察するだけの時間があるだけだった。
その後、一部のメンバーは事務所を退所し、かつてのマネージャーと一緒に新しい芸能事務所で「新しい地図」としての活動を始めた。
告知にはじまる新しい活動の始まりを、自分は興味深く見ていた。
彼らにとって大きな転機。若い時の転機はたいてい前向きなものだ。自分の可能性に気づき、大きなステージに上がるチャンスを得て、社会的成功に結び付いた契機として語られる。
しかし年を取って、一定の成功を既に収めていた人間にとっての転機は異なる。成功を収めた人間の転機が語られるとき、そこには必ず挫折の香りが付きまとう。
一度は高い評価を得た人間が、年をとってから不本意な転機を迎え挫折を味わいながらも、それでもやりたいことをやろうという志。
新しい活動を告知するプロモーションからは、その思いが伝わってきて、その清廉さに自分は強く心を動かされていた。テレビ局等既存メディアの冷淡な反応を見ながら、abemaでの72時間生放送番組などを通じて自分たちの場所を取り返そうという活動には、素直に応援したいという気持ちになった。
その後、かつての所属事務所が問題を経て事実上解散するなど周囲の環境の変遷もあって、最近はすべてハッピーではないだろうが、彼らが自分の現在地に概ね満足しながら活動しているように見えて、自分はただの一般人であるが密やかによかったと思っている。
さて本題の本の感想である。
率直に言うと、解散の経緯については特段の新しい事実はなかったように思う。私の最初の感想は、非常に表現が難しいが「週刊誌って思ってたよりは事実を伝えていたんだな」というものだった。
誤解しないでほしいのだが、週刊誌の報道が”すべて”正しかったという趣旨ではない。あの時期、豪快に事実無根の話を書き飛ばした記事は数え切れぬほどあったし、私自身そういう記事を多く読んだ。しかし、こうやって本を読んでみると、当時の記事にはたくさんの嘘があったが、全部が全部嘘でもなく、一定の真実も含まれてはいたんだなというのが私が感じたことである。
解散の経緯については感じていたとおりのものだったが、それ以外の部分、SMAPがスターになるまでの経緯や、敏腕マネージャー(個人的には魅力的な方だと思う)のエピソードも面白く読んだが、一番興味をひかれたのはスマップ5人旅の裏話である。当時、この放送をリアルタイムで見ていてとても楽しませてもらったので非常に興味深くこの項は読んだ。
放送時点で、SMAP5人がプライベートで必ずしも仲がいいわけではないというのは、何となく暗黙の了解のようなところが受け止める私たちにもあったと思う。
そりゃそうだ、気の合う仲間が集ってバンドを結成したとかではなく、芸能事務所の戦略とセレクションに基づいて作られたグループなのだ。
私たちと同じ。職場で気の合う人もいればそうでない人もいる。職場を離れたプライベートでも接点がある同僚もいればそうでない人もいる。冷静に考えればただそれだけなのだ。
もっとも、一緒に歌を歌ったりバラエティで何かに取り組んだり、そういうのをテレビで見ているうちに、メンバー間の関係性について期待してしまうのはファン心理として理解できる。ビジネスで作られたユニットだとわかっていても、グループでエンタメを提供している以上、そこに人間的な何かがあってほしくなってしまうのだ。
芸能事務所などの送り手側もファンのそういうニーズを汲み取って、そういう関係性を少なからず演出してきたところは、昭和から平成のアイドルにおいてあったと思う。
この5人旅がおもしろかったのは、メタ的に5人の関係性を見せてくれたところだと思う。
とってつけたように仲の良さを演じて見せても大衆はそれを虚構と見抜く。しかし、この5人旅で彼らは仲良しグループという幻想を演じることはなく、ビジネスとしてのグループであることを見せつつも、微妙にそれだけにとどまらない関係性を見せてくれた。
仲良しではない、ドライではあるけどグループとしての絶妙な距離感。そのリアルさがファンを納得させ、ドキュメンタリーとして抜群のおもしろさになっていた。
今回、この本でその部分の裏話を読んで「思いのほか演出を入れてたんだな」というのが感想である。正直、少しがっかりしたといってもいい。
鈴木氏も演出としてギリギリのところといった表現をしている(ように私は読んだ)が、放送倫理上はセーフでも見る大衆の受け止め方的にはちょっとアウトかなあという印象を持ったところである。
スタッフがの準備の緻密さにはそこまでやるのかと心底舌を巻いたが、その精緻さゆえにこれはやっぱり演出と言われてもしょうがないんじゃないかなと思う。
さて、本を読了後に思ったのが、あの日の公開処刑で死んだのはスマップというグループだけでなく”国民的アイドル”という文化そのものだったのではないかということ。
昭和後期から現在まで、多くのアイドルが世に出てファンの熱狂を集めてきた。アイドル本人、芸能事務所そしてメディアが膨大な手間と費用をかけて演出して、アイドルとしてのエンターテイメントを作り上げて世に提供し、私たちはそれを楽しんできた。
しかし、あの日の公開処刑はそれをすべて破壊してしまった。
いままで芸能の作り手たちが、この人たちはこんなにカッコいいんですよ、素敵なんですよ、楽しいんですよ、と様々な手を駆使して魅せてくれていたのが、突然に手のひらを返し、彼らはビジネスのルールに反しましたのでペナルティを与えます、悪い存在なんですよ。あなたたちが楽しんできたエンタメは私たちが作りあげたビジネス上の虚像なんですよ、と自分たちが作ってきた作品を完膚なきまでに壊してしまった。
処刑されたのはSMAPだったかもしれない。しかしそれを見せられた一般大衆が、他のアイドルに熱狂できるだろうか。
もちろんコアなアイドルファンがいなくなることはないだろう。気に入った人間のファンになって楽しむという心理がある限り、一定のファンを集めるビジネスとしてのアイドルはこれからも存在し続けるのは間違いない。
しかしアイドルにさほど関心のない層にも広く認知され、好感を持たれ、国民的アイドルとして認められるような存在がこれから出てくるだろうか。多分、大衆はそこまでイノセントではない。
その意味で、あの日あの出来事で壊れたものは芸能という世界にとってとても大きなものだったのではないかと思うのである。