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世界史の窓「黄巾の乱と三国志」

おはようございます。気晴らしを兼ねて一つ。今日は世界史から「黄巾の乱と三国志」について。

主にコーエー系の三国志物のシミュレーションゲームが好きだった人間にとっては、そうした英雄割拠の時代の前の段階として黄巾の乱は馴染みのあるものかと思います。時は後漢の末期、統治は荒れ、官吏は腐敗し、民衆は虐げられるという荒んだ世の中でした。そうした中で主に医術に長けた張角という指導者が現れ、宗教を組織してそれが民衆の間に広がっていくこととなります。そうした中、張角に賛同する民衆によって起こされた一連の反乱が「黄巾の乱」と言われ、頭に黄色い三角巾などを巻いて目印にしていたことからこう呼ばれました。

彼らのスローガンが「蒼天すでに死す、黄天まさに立つべし」であり、後漢朝廷を打倒することを目的に各地で蜂起を起こしました。これに対し、後漢の朝廷も鎮圧を試みますが民衆の不満を背景に黄巾党は拡大し、後漢朝廷は各地の豪族らにこれらの鎮圧を委ねることとなります。

そうして、鎮圧にあたった豪族らには後に有名になる董卓や曹操、袁紹と言った英雄割拠時代の豪族も多数含まれます。こうした蜂起と鎮圧の最中、指導者であった張角が死亡することにより黄巾党の勢いは衰えますが、その鎮圧にあたった豪族らの活動は寧ろそれを背景として拡大することとなります。そうした中、いち早く長安などの主要部の支配を確立した董卓が、中央の実権を実質的に握ることとなります。

そうして、宮廷の実権を事実上掌握した董卓は横暴の限りを振る舞い、それに反発する形で各豪族らが打倒董卓の形で戦乱を続けることとなりました。これが、初期の三国志の時代背景そのものとなります。その中で、董卓はその横暴から配下の呂布に暗殺され、董卓の勢いもここまでとなりました。一方、同じく黄巾の乱の鎮圧に参加していたもう一人の有力者、曹操は、元々は袁紹の配下として行動していましたが、その後、多くの反乱の鎮圧とその所領の平定を行い、次第に勢力を増すこととなりました。

初期の三国志の時代は、そうした黄巾の乱と対董卓への軍事作戦に参加した豪族らが中心になっており、袁紹はその有力者の一人でした。但し、袁紹は曹操に比べて多少凡庸なところがあり、袁紹と曹操は「官渡の戦い」で直接対決し、勢力で大きく上回る袁紹を曹操が巧みな軍事作戦で大敗させ、この二人のその後の趨勢がその時決まった、という話になると思います。

曹操が次第に勢力を拡大する中で、同じく黄巾の乱の鎮圧に参加していた豪族の一人に劉備がいました。彼は、漢王朝の正統な系譜とされ、その人望もあって優秀な部下に恵まれ一定の活躍をしますが、様々な不遇により他の群雄の元で過ごす日々を長く続けました。そうした中で、有名な「三顧の礼」の故事により三国志時代の屈指の軍師、諸葛亮孔明を配下に据えることに成功し、こうしたことから主に荊州を中心に勢力を築くことに成功して、後の蜀の建国に成功しました。

三国志の三国とは、つまりは曹操の打ち立てた魏と、同じく有力な豪族の一人であった孫権が打ち立てた呉、そして劉備の打ち立てた蜀の三国で中原の覇権を争うものとなりました。そこに至る過程には、様々な多数の有名な戦史があり、それら一つ一つが全て興味深いものであるため、興味ある方は各位でお調べになるとよいと思います。多数の故事成語の由来となり、あと、我が国に関しては例えば和服を呉服というように、この時代の中原とは何らかの繋がりがあったと言えます。当時の日本、倭国の様子は後の魏の歴史家により「魏志倭人伝」として記載され、その中に卑弥呼も登場するという有名な話もあります。

長くなりましたので以上とします。

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