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概説・日露戦争【旅順要塞と二百三高地】
今日は新規には書く気はなかったのですが、ふと頭をよぎり、これも確かFacebookかどこかでシリーズとして書く予定だった事なので、思った時に書いておく事にします。但し、当初は複数編から構成する予定でしたが、より内容をシュリンクして極力簡潔に書きます。日露戦争の概説です。
三国干渉からの富国強兵に努めていた日本は、ロシアの南下政策により、満州・朝鮮半島を経由する形で次第にロシアからの軍事的圧力を強く受けるようになりました。日清戦争で本来は獲得していた遼東半島の権益は当時はロシアの手中にあり、そこには極東最大の軍事要塞・旅順要塞が築かれ、不凍港を求めるロシアの脅威は目前に迫るところとなりました。
1904年2月初旬にロシアへの奇襲攻撃と宣戦布告を行い、日本はロシアの軍事的圧力を排除する事を主な目的として対露戦を開始しました。同じ2月に大韓帝国との間で日韓議定書を締結して大韓帝国を事実上保護国化し、朝鮮半島から満州への軍事進行を円滑にすると共に、鴨緑江を越えて満州へと進撃し、陸戦の舞台は満州へと移ることとなりました。
この時、陸上部隊への補給を円滑にする為には、日本海における制海権の確保が重要で、その最大の脅威は旅順に停泊するロシアの旅順艦隊でした。陸からの旅順攻略は困難を極めると予想された為、旅順艦隊を基地から引き出して海戦による撃破を企図しますが、旅順艦隊は積極的には撃って出ず、有効な打撃を与える事が出来ませんでした。この為、陸上からの旅順攻略と同時に、港湾の入り口を旧型船を沈めて閉塞する「旅順港閉塞作戦」も企画されました。
旅順港閉塞作戦は数次にわたり行われますが、これも結局成功裡にはならず、陸上からは乃木希典を指揮官とする陸軍部隊が要塞に対して数度の正面攻撃を行いますが、堅固な旅順要塞の前に被害を積み重ねるばかりでした。その中で、ロシアのバルチック艦隊が欧州から極東に向けて進発し、旅順艦隊と合流された場合は到底戦力的に対抗出来ない事から、事態は切迫する事となりました。ここで、陸軍により旅順付近にある「二百三高地」を攻略する事により、そこからの陸上攻撃で旅順艦隊に打撃を与える事が企画されました。
旅順の正面攻撃から攻撃目標を二百三高地に変えた日本陸軍と、迎え撃つロシア陸軍との間で、二百三高地の占領を巡る激しい戦いが開始されました。双方ともに甚大な被害を積み重ねる中、日本側が結局この高地の占領に成功しました。高地を占領した日本は、そこに本土から移設した28センチ榴弾砲を設置して、旅順港目がけて砲弾の雨を降らせる事となりました。この攻撃により、海戦を避けて基地に退避していた旅順艦隊は大損害を被り、事実上極東におけるロシア最大の艦隊、旅順艦隊はここに壊滅する事となりました。旅順要塞も被害を受け、ロシア側の指揮官・ステッセルは旅順の降伏と開城を宣言し、乃木希典と水師営にて会談を行い、ここに旅順要塞を巡る戦闘は終結する事となりました。
犠牲者は、Wikipediaによると、日本側の死者が約15000人、負傷者が約44000人にも上り、ロシア側も約16000名の死者と約30000人の負傷者を出しました。大量破壊兵器のないこの時代に、これだけの犠牲者が出た事は、この戦いが如何に凄惨で大規模な物だったかを物語ると思います。
その後、本来は旅順艦隊との合流で戦力をなすはずだったバルチック艦隊が極東に到着しますが、旅順陥落後であった為ウラジオストクへの入港を目指します。その過程で対馬沖で日本海軍の連合艦隊に捕捉され、ここで有名な「日本海海戦」が行われます。この戦いは連合艦隊のほぼ一方的な勝利となり、その結果がこの戦争の帰趨を最終的に決めたと言っても過言ではないと思います。
近代日本において、国家の存亡を掛けたこの大戦争が、現代日本の歴史を築く上で極めて重要な出来事だったと思います。今回はここまでといたします。以上。
※ヘッダーの写真は、2019年の5月に私が横須賀で撮った戦艦三笠の写真です。5月の下旬には、日本海海戦の勝利を記念した海上自衛隊のイベントがあったと思います(元々は海軍記念日)。