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一般社会における「契約」についての考察

ちょっと、起き抜けから堅い話題、というか中々ソラで扱うのが難しい話題を取り上げます。昨日X(Twitter)をしていて、あちらに幾つか書いたことをベースに、今回は我々が過ごす社会の中での「契約」について考えます。

例えば我が国では、契約については民法上に法律的な規定があります。調べると第522条にその内容がまずあって、原則「内容に対して双方が合意した場合に成立するもの」と一言で言えるかと思います。契約については、簡単に言えば「契約自由の原則」と言うのもあり、これによればその中に含める内容は当事者同士で自由に決めるものとなりますが、そこは結局、その前提が民法である以上は民法および憲法などを逸脱するものには出来ない、という話になると思います。

一つ例を挙げると、よくCMや広告で目にする「過払い訴訟」というものがあり、少し細かく見ると、あれは元々は貸金業においては貸し出し金利に規制がありましたが、それを、「出資」という話のすり替えで規制以上の金利で貸し出しを行っていたことに対する返金訴訟、と言えるかと思います。つまり、その時点で当事者同士が契約に基づいて金利を定めていたとしても、それは貸金業における規制された金利からは逸脱するため、契約上でも法律上でも無効であった、という話と思います。

あと、大事なこととして契約というのは結局は当事者同士の「権利・義務」の関係を定めたものと言えるため、権利に対しては義務があり、義務に対しては権利がある、という極めて当たり前の話があると思います。これも、表面上は契約ではないものの、概念的には契約そのものである「婚姻」などが正にそうで、男女が民法上の婚姻に基づき夫婦関係を結んだ場合は、そこには不貞行為の禁止、相続等を含む財産の扱い、といったことにそれこそ正に権利・義務の関係が発生するものとなります。一般の民間における契約も全く同様で、そうした義務に関するものを果たさない場合は、それこそ「債務不履行」という話になるかと思います。

こうした、近現代の法治国家を前提とした社会において、契約という考え方のルーツは、私的には西洋におけるキリスト教の存在を切り離すことは不可能であると思います。古代日本での話までは詳しく知りませんが、ただ、日本においては鎌倉時代の貞永式目や江戸時代の武家諸法度といった法律的なものが既にあったとした上で、今日の日本社会においても西洋的な契約の概念への考慮を抜きにすることはまず出来ない、と思います。

知る限り、西洋においてはまず「原罪」というのが人間にはあり、その原罪に対して神が救済を与える、という考え方がベースであると思います。そのため、典型的にはキリスト教における婚姻などが象徴的で、キリスト教における婚姻は教会で神の前で互いに誓う、という形式となります。これこそが、正に社会における人と人、あるいは当事者同士の関係が神の前で行う「契約」であるという社会要素の端的な表れであると思います。

キリスト教における社会の規範や道徳は、これも原則は「聖書」に書かれたものに由来することとなりますが、そこに、当事者同士の各種の事情を反映させた上で、予め相互のそれこそ「権利・義務」の関係を明文として定めたものが西洋的な契約ということになると言えます。別の言い方をすると、先ほど触れた「原罪」にある通り、キリスト教には「神なき人は、罪を犯すもの」という暗黙の前提があると私には思われ、そうした相互において将来的に互いの信頼を毀損する可能性が予めある関係上、そういったことを先に文書等で定めておくのが正に契約の考え方そのものと私は思います。

昨夜X(Twitter)にも書きましたが、相手が自分に悪意を抱くという警戒が、それが逆に自分が相手に対して悪意を抱くこともある、という自他双方への警戒心が前提としてあり、それが正に「神なき人は、罪を犯す」という話そのものであるため、そうした可能性を極力減らすために諸処の事情を予め合意に基づいて決めておく、という言い方が出来るかと思います。そうした行為により、寧ろ互いの信頼関係を築くという、それこそ正に西洋的な考え方と思います。

長くなりましたのでまとめに入りますが、聞いた話だとメジャー球団に入団するときなどは、それこそ選手は辞書に匹敵するようなとても分厚い契約書を交わす必要があり、そこには選手が球団でプレイする上で必要な様々なことが日常なども含めてびっしりと書かれているそうです。こうしたことから、特にアメリカはそうしたスポーツ選手に限らず代理人社会であって、アメリカにおいては弁護士といった法曹関係者の社会的ニーズが今日でも極めて高い、という話になると思います。以上です。

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