世界史の窓【北アフリカ戦線とロンメル】
こんばんは。とても書くような気分でもないのですが、そうであればこそ頭をよぎったことを書き残すことに意義があると思われるので、多少無理していますが一つ書くことにします。今回も、一つ戦記物として、第二次世界大戦における北アフリカの戦いを話題に上げます。
元々、北アフリカには枢軸国であるイタリアと、連合国であるイギリスがそれぞれ植民地を持っていました。イタリアはリビア、イギリスはエジプトとなります。ドイツは、欧州でダンケルクにイギリス軍を追い詰めましたがイギリスは撤退に成功し、その後イギリスとの本格的な戦闘を控えることとなりました。この過程で、ドイツからの要請によりイタリアは北アフリカにおいてイギリスの拠点を攻撃することとなりました。
1940年になり、イタリアはエジプトへの侵攻を開始します。当初はイギリスの撤退もあって侵攻は順調に進みましたが、イギリス軍が機甲師団を投入して反撃に転じると、対装甲兵器への装備がまともになく、歩兵主力であったイタリアは敗北を重ねることとなり、イタリアは北アフリカの拠点であるリビアを失うこととなりました。
そこで、ドイツの指導者であったヒトラーは、北アフリカ戦線のてこ入れのためにドイツ軍の派遣を決定しました。この時派遣された指揮官が、かの有名なエルヴィン・ロンメルです。当初、北アフリカに派遣されたドイツ軍は、三個師団程度の比較的小規模なものでした。これは、当時ドイツは東部戦線を戦っており、対英戦もあったため北アフリカでそもそも大規模な戦闘を行う意図がなかったためと思われます。連合軍が南方から欧州に向けて侵攻するのを阻害するのが主な目的と言えましたが、現地に派遣されたロンメルは積極的な攻勢に撃って出ることとなります。
ロンメルは、この時恐らくエジプトを攻略し、スエズ運河を手中に収めた上で、中東からコーカサスを経由して東部戦線への参戦も想定していた可能性があると言われています。ロンメル本人がそう考えていなかったとしても、彼を北アフリカへ派遣したヒトラーの頭の中には、思うように進行しない東部戦線への彼の参戦が期待されるところではあったかも知れません。
イタリアと異なり、少数ながら機甲師団を擁するロンメルのドイツ・北アフリカ軍団は、その機動力を活かしてトブルク、キレナイカ等の連合軍の拠点を次々と攻略していきます。ロンメルの攻勢の前に退却を重ねたイギリス軍は、北アフリカの拠点であるエジプトまで後退することとなります。
イギリス軍は、エジプトの手前100kmほどの拠点、エル・アラメインを防衛ラインに設定し、この時にエポックメイキングなことが起こります。イギリス軍に、後のNATO司令官にもなる高名な将軍、バーナード・モンゴメリーが指揮官として着任します。モンゴメリーは、早期反攻を行わず、自軍の補給力を十分に活かして戦力の充実に努めた上でドイツ軍への反撃を開始しました。
ドイツ軍は、緒戦の連勝で順調に進撃していましたが、欧州から遠く離れた北アフリカで、片側で行われていた東部戦線の戦闘経過などもあり次第に補給に窮するようになりました。モンゴメリーによる十分な戦力を裏付けにした反撃を受けるにつれ、次第に後退を迫られることとなります。戦術的な天才であったロンメルをしても、この時には既に連合軍とは補給力の点で相当な差があることとなりました。
そして、北アフリカにおいても、遂にアメリカ軍が上陸してくることとなりました。チュニジアに追い詰められたドイツ軍は、西をアメリカ軍、東をイギリス軍から挟撃される形となり、圧倒的な戦力の差もあって敗北することとなります。ここで、ドイツおよび枢軸国は北アフリカの拠点を全て失うこととなり、ドイツ北アフリカ軍団は消滅することとなりました。
その後の経緯だけ簡単に書いて締めくくります。北アフリカを占領した連合軍は、そこを足がかりにしてイタリアの南方にあるシシリー島への上陸作戦を開始します。シシリーも結局は連合軍の手に落ち、さらにイタリア南方から攻勢を行うことによって、遂に、1943年イタリアは連合国に対して降伏することとなりました。
その後は、北側から1944年6月に「史上最大の作戦」が行われ、フランスに上陸した連合軍と、東部から侵攻するソ連軍に挟撃されたドイツは、1945年5月に降伏することとなりました。
少し長くなりましたが、以上です。