世界史の窓「史上最大の作戦」
こんばんは。少し夕飯前に気張らしを兼ねて一つ書きます。今回も、世界史からの話題を扱います。「史上最大の作戦」について。
同名の映画もあるように、これは第二次世界大戦時に欧州戦線で行われた、連合軍によるノルマンディー上陸作戦の話となります。作戦が行われた日がいわゆる「Dデイ」という物であり、1944年6月6日となっています。
この前の段階で、北アフリカ戦線における枢軸国の敗北と、シシリーの占領、及びそこを拠点としたイタリアへの攻撃などがあり、イタリアは1943年の段階で連合国に降伏していました。そうした南方からの攻略と同時に、フランス及びパリ解放を目的とした大規模なフランス解放作戦が企画され、その作戦全体は「オーバーロード作戦」と呼ばれる事となりました。ノルマンディー上陸作戦は、その一環となります。
ドイツ側も連合軍がイギリスを拠点として北側から上陸を行う事を想定しており、対上陸作戦向けに主にフランスのカレー地方を中心に防衛拠点を築いていました。その過程で連合軍が実際にどこから上陸するかが争点となり、これはドイツ軍の将校の間でも議論となりました。大半の将校及び参謀は、当初の想定通りにカレーからの上陸を予見していましたが、一人、北アフリカから撤退してきたエルヴィン・ロンメルのみがノルマンディーからの上陸を予見していました。結局、ロンメルの見解は反映されず、ドイツは想定通りにカレーを中心に対連合軍の体制を整えることとなりました。
連合軍側の、作戦に参加した兵力は総計約15万人、艦船約5000隻、航空機約12000機という極めて大規模な物で、こうした事からこの作戦が「史上最大の作戦」と呼ばれる所以となります。先だって、連合軍は空中から落下傘で降下する空挺部隊による侵攻から開始し、海上からの艦砲射撃や航空機の支援の下、兵士や戦車、装甲車両といった陸上戦力も次々と上陸してきました。ただ、実は米軍の上陸地点であった「オハマ・ビーチ」のみが、こうした支援攻撃の効果が十分に上がっておらず、有力なドイツ軍部隊が待ち構える中で上陸を決行し、多数の被害を出す事となりました(この過程を描いた物が、有名な映画「プライベート・ライアン」です)。
そうした中で、応戦するドイツ軍には、当日はロンメルが不在でした。ロンメルは、家族の誕生日の為に休暇中で前線を離れていました。そこで連合軍の上陸作戦が開始された事から急遽前線に向かいますが結局間に合わず、ノルマンディーで指揮を執る事が出来ませんでした。
ドイツ軍は、防衛陣地をカレー中心に構築しており、応戦の為の戦力の大半をカレーを想定して配備していたため、ノルマンディーから上陸してきた連合軍への応戦は想定通りとはならず、約20万人に上る捕虜と、約10000人近い死傷者、及び多数の装甲車両等の陸上戦力を失う事となりました。
この作戦では、米国が特に被害が甚大で、連合軍のその後の侵攻にも影響を及ぼしました。これは、当初の米国のドイツ降伏予想にも影響し、欧州での戦争が長引く事が予見され、その過程でフランスからオランダ、ドイツに至る橋梁を空挺部隊により占領して戦争の早期解決を図る「マーケットガーデン作戦」なども企画され実際に行われました。ただし、これは結局連合軍の大敗に終わり、ドイツは1945年5月まで戦い続けることとなりました。
詳細な内容は各種の資料に譲るとして、今回は気晴らしにここまでといたします。この題材を扱ったメディア作品は多数あるので、ご興味ございましたらぜひご覧になってください。以上です。
※ヘッダーに引用した画像は、当時のドイツの主力戦闘機、フォッケウルフFw190です。メッサーシュミットと併用してドイツの防空にあたりました。