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世界史の窓「阿片戦争」
おはようございます。起き抜けにふと頭をよぎったので、私は本来学生時代に世界史の履修をしておりませんでしたが、これについては近現代史上のエポックメイキングな事件だったと思うので、知ってる範囲、分かる範囲で書いてみようと思います。今回は、「阿片戦争」。
中国大陸では、明朝から清朝と王朝が交代しましたが、明朝の末期くらいから国内で阿片(あへん)吸引の習慣が徐々に広まっていたようです。阿片とは、ケシから抽出される麻薬に相当する薬物で、高い依存性と健康への有害性があり、これが広がる事によって病人や文化の退廃など、様々な悪影響が生じました。こうした事から、阿片の吸引は次第に取り締まられ、清国でも刑罰を伴う厳しい取り締まりが行われるようになりました。
話は変わりますが、15世紀の末くらいに、英国を中心に東南アジアなどで主に香辛料や農作物などの貿易を行うための東インド会社が設立されました。清朝になってからも、こうした東インド会社を通じた欧州との貿易は行われており、清国からは主に茶や絹が欧州向けに輸出されていました。
一方、それを輸入する一国であった英国は、元々紅茶を消費する喫茶の文化があり、清国からの輸入品を大量に消費していました。それに対して英国は、当時の工業製品を清国向けに輸出していましたが、当然清国側の購買力がそれほどでもない関係上、大量に輸出出来るものとはならず、英国の対清国貿易は大幅な輸入超過でした。つまりは大幅な貿易赤字であり、それに伴い当時世界的に貿易決済に用いられていた銀が国内から大量に流出する事となりました。
英国は、こうした対清国貿易での貿易赤字を抑制し、銀の流出を防ぐ為に貿易収支の改善を目指しましたが、大規模な輸出可能な商品がない事から、植民地であったインドで生産した阿片を清国に輸出する「三角貿易」で貿易収支の改善を図りました。但し、先述の通り清国では阿片は禁止薬物であったため、これは事実上の密輸でした。
こうした結果、清国で次第に英国から密輸される阿片が蔓延し問題化しました。事態を重く見た清朝政府は、役人「林則徐」を派遣して阿片の密輸取り締まりにあたらせます。林則徐は、密輸外国人に厳しい対応を行い、大量の阿片を処分するなどの対応をしました。これに抗議する英国は、軍艦を派遣して清国に圧力をかけ、それに応じた清国との間で戦争が勃発しました。これが、今日「阿片戦争」と呼ばれる出来事となります。
戦争の帰趨は、近代的な兵器で武装する英国側の一方的な勝利で、敗れた清国との間の停戦交渉の一環として「南京条約」が締結されます。これは様々な清国側に不利な条件を含む一方的な「不平等条約」で、これにより香港が英国に事実上割譲されるという事態になりました。近年まで香港が英国の統治下にあったのはこうした事情からとなります。
この条約が締結されたことで清国の威信は更に低下し、結果として植民地化が加速して列強の「草刈り場」となっていきました。
今回は、簡単に書ける範囲で書きました。また、話題があれば世界史にも少し触れてみたいと思います。以上。
※ちなみに、話は全く関係ありませんが、ヘッダーに引用した画像は、恐らく「ナガミヒナゲシ」という花で、ケシの一種です。日本国内でも自生していますが、当然阿片の抽出に用いられるという事はありません。ただし、繁殖力の極めて高い、見た目とは裏腹にある意味有害な花です。