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夏嫌い、近況/日記

なぜ日記というものは途切れるのか。そして、なぜ途切れた後に書かれた日記は自己言及的になるのか。いま、自己言及を変換しようとして「事故減仇敵」と変換してしまった。そうはならんやろ。

日記を書けなかったのは何も忙しかったわけではなく、夏が暑かったからである。
あるロックスターは「シャワーのお湯が熱かったから」とライブ会場から帰ってしまったことがあるそうだが、その破天荒さに比べれば「夏が暑かったから何もやる気が出ない」という言い訳は大変理路整然としている。
知的で論理的でアイロニカルな僕の脳みそが、この夏の暑さを耐え抜き未だロジカルシンキングをしている証拠でもある。

ビバ、言い訳。
もっとも「20度を超えたら夏である」と定義しているため、我らが日本国のことを一年の半分が常夏の煉獄として捉えているわけだが。

灼熱な夏、灼夏がようやく過ぎ去ってからこの夏のことを思い返すと、あちらこちらに遊びに行ったりなどはしたものの、人間的な成長につながることは何もなく、残ったのは一日中付けっぱなしのエアコンが残した、5桁円の電気代の請求書のみである。
重課金の末冷やしていた部屋の空気は、10月がやってくるとともにあっさりと快適な気温まで下ってしまった。
文鳥が寒い寒いと文句を言うから、鳥用ヒーターを出すはめになり、人間もまたぼんやりと冬支度を考えはじめた。大人になると時間の流れが早くなるのは、長年の経験から次にやってくるものの姿がぼんやりと見えてきてしまい、前もって前もって支度をする人生を強いられるからではないかと思う。
だからといって、時の流れに抵抗して支度を怠ると、小学生の頃の僕のようにクラスで一番忘れ物が多いダメな生き物として晒し首になってしまう。
まったく、困ったものだよな、と思って文鳥に話しかけていると、彼女はブンブンと尻尾を振りはじめる。発情の兆候だ。発情したメス文鳥は卵詰まりを起こして死ぬことさえある。しばらく様子を見つつ、文鳥と触れ合う時間を見直さなければならないかもしれない。晒し首になるのならまだいいけれど、この鳥の一生を半ばのまま終わらせてしまうと、僕はいよいよ支度をするのをやめてしまいそうだ。

ぐだぐだと文字を書きながら、8月から今日までなにがあったかを思い出している。
美術館に写真や絵を見に行ったり、エミューを見に行ったりなどしていた。
それから、ずっと待ち望んでいた映画を見に行った。『マイ・ブロークン・マリコ』、とてもいい映画でした。

スポーツや芸術作品の効能として、我々自身の人生を忘れられることがあるように思う。
我々は、我々一人きりの人生を生き続けるだけでは耐え難く感じるような瞬間があるからだ。
自分の役割を離れてもいい、と許される時間としての鑑賞・観戦経験は大変貴重であるように思う。
もちろん、なんらかの表現の当事者として、表現活動をすることにも素晴らしい意義がある。たとえその表現を誰一人見ていなかったとしても、我々は自己療養的になにかを表現できる。たとえば、この文章がそうであるように。
なんらかの活動を通じて、当事者でありながら当事者としての自分を離れる。同じように、表現を受容するある種の「器官」になり切ることで、自身の人生をやり過ごしていく。その相互作用の中で、なんとかやっていく。そんなことを考えている。

特に書きたいことも無いので、なんとなく適当に書き散らしているので、何の脈絡もない話になっている。
もう少し、週間付けをして、少しずつ調子をもどしていきたい。


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