ドトールとサンマルクを区別して生きてますか? / 日記
あまり大きな声で言う話ではないが、コーヒーチェーンのドトールとサンマルクの違いが分からないまま利用している。
大きな声を出せばたちまちに誰かに睨まれてしまう社会なのだから、小さな声で語られる日常的な勘違いのことくらい笑って済ませてくれればいいのだが、人によっては
「ええ、全然違うでしょう」
と呆れたように応える人もいる。
いや、嘘。
誰かにわざわざ「ドトールとサンマルクの違いが分からないんですよね」なんて言わないから、この会話は完全に僕の空想である(やれやれ、大きな声で言うどころか、そもそも誰かに語ってすらいないではないか)。
それでもその空想上の会話相手は、
「チョコクロを売ってるのがサンマルクですよ、間違いようが無いじゃないですか」
なんて教えてくれたりもする。まったく、親切な人である。このまま「えっ、チョコクロってなんですか」なんてとぼけつづけたら、僕のためにチョコクロワッサンを買ってくれるかもしれない。
厳密に言えば、僕だってドトールとサンマルクカフェの違いをまったく理解しないまま生活しているわけではない。
たしかに両方とも(スタバと違って)黄色だかオレンジだかのロゴだし、扱っている商品や価格帯もなんとなく似ているし、立地だって下手したら道路を挟んで真向かいにあったりする。それでも両者はニンテンドー64とスーパーファミコンくらい違うし、ガンダムとザクくらい違う気がする。
僕がこの両者を区別しないのは、おおよそ日常的な生活において、わざわざ違いを認識する必要が無いからである。
日常生活において、ドトールやサンマルクに行くのは、「ランチの混んだ時間帯にサッと座れる店に行きたい」とか、「移動の合間に20分だけ時間をつぶしたい」とか、せいぜいそんな具合である。
こういうときに重要なのは、その日そのときその半径100m以内に店が存在しているかどうかである。その店がどんな雰囲気でどんな商品を扱っているかは、あんまり問題にはならない。
ちょっと近場に買い物に行くくらいなら、ガンダムとザクのどちらに乗ろうが、対した違いはないのだ(ないですよね?)。
だから、僕は自身の生活圏において、これらの2つをしばしば取り違える。
「たまにはチョコクロでも食べるか」
と思ったのに、自身がドトールにいることに気がつくのは日常茶飯事。世間話の文脈においては、左右盲の人のようにこれら二つを取り違えて語っていたりする。
「ランチはドトールでチョコクロを食べた」と言って、相手をぽかんとさせた経験も1度や2度ではない(逆に言えば、世の中の大多数の人はドトールとサンマルクカフェの区別をして生きているのだ)。
この短い日記の中でも、何回もドトールとサンマルクカフェを間違えて書いていて、何回も訂正している。
まあ、赤信号と青信号の区別をつけなければ大変なことになるけれど、コーヒーチェーンの名前をごっちゃにしていたところで、日常生活においては大した影響はない。
なによりも、僕自身が「ドトールとサンマルクカフェの区別をつけていない」と認識しているから、問題が無いのだ。
そう、僕が本当に恐れているのは、勘違いに気がつかないことである。
「僕自身の認識にこうした取り違えが他にもたくさんあって、その存在に気がつかないまま生きているのではないか」
ある物事の区別をつけないということは、その差異を重要と捉えていない、ということである。今日と昨日の違いが重要だからこそ、我々は日付の違いを認識できているし、僕とあなたが違うからこそ、我々は互いが考えていることを大切にしようと心がけている。
今回は、たまたまドトールとサンマルクカフェであった。僕もたまたまその違いを認識していて、その上で限りある思考と判断力のリソースを削減するため、意図的に鈍感に暮らしている。
でも、もしかしたら、それとは別に僕のまったく気がつかないところで、そうした致命的な間違いが僕の思考に組み込まれているのかもしれない。
そうした、「気がつかないもの、知覚できないもの」と次第に不安になってくる。知覚できる間違いをことさらに大袈裟に扱って、自分はまだ大丈夫だと信じ込ませたくなる。
まったくもって、馬鹿げた悩みだとは思う。
少なくとも、大きな声で語る価値はない。
そんなわけで、近況とリハビリを兼ねて、他愛もない日記を書いた。
改めて思ったのは、どういうわけかサンマルクカフェに対してドトールの解像度がやたらと低いっぽい。なんだかんだ言って、サンマルクカフェばかり行ってるのかもしれない。
まあ、僕には確かめようのないことではあるが。