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NITS learning HUB 〜自分はどのように力量を深めてきたのか?〜

 先日、NITS(独立行政法人教職員支援機構)が主催した、NITS Learning Hub「シリーズ:教職員としての在り方を考える」を受講してきた。正直、NITS自体を今まで知らなかったのだが、HPに記されていた「NITS戦略」の中の「教職員の学びと子どもの学びは相似形」というキーワードが今僕の関心と重なったので気になって参加することにした。

NITS戦略〜新たな学びへ〜より

 今回のプログラムは参加者同士が自分自身の今までの経験を振り返りながら、次の問いを内容だった。
「教職員はどのようにして教師としての力量を深めているのだろう?」 
 3時間近く、参加者同士で対話をしながら自分のことについて振り返ってみた。それ記録として残しておきたい。

自分はどのように力量を深めてきたのか?

改めて振り返るといくつかの段階があったように思える。

①とにかく行動!失敗からでも成功でも学べる!(初任〜4年目)


 大学を卒業して初めて勤務した学校は、ものすごく若い学校だった。6学年3クラスの規模で学級担任の平均年齢が26歳。1番年上の先生が30歳。今の現場では考えられない。(ちなみに今の現場ではいまだに僕は男性最年少)
 僕にとってはとてもありがたい環境だった。みんな必死に頑張っていたので、お互いの実践に関してとても寛容だった。クラスごとに違うことをしていても特に何も言われないし、思われなかった。
 また、2年目にとてもやりがいのあるクラスを任せてもらった。その時の経験が今の僕を支えていると言っても過言ではない。その時の子どもたちや周りの先生には本当に感謝しかない。
 そんな中で僕は岩瀬直樹さんの実践を参考に「クラスの子どもがオーナーシップを持てる授業づくり・クラスづくり」を大事にしてきた。外部の学びの場にもどんどん参加し、そこで紹介された書籍や学習会に手を伸ばしていった。
 そこで転機となる書籍と学習会があった。それは苫野一徳さんの『教育の力』とその苫野さんと岩瀬さんがタッグで開催した学習会『教師の学校』だ。
 『教育の力』は、公教育の目的は何か?という問いに対して実にわかりやすく、そして力強く書かれている本だった。「自由になるために力と自由の相互承認の感度を育む」という定義が当時の僕にはとてもしっくりときた。また、そのための「学びの個別化・協同化・プロジェクト化」の提案も、大人数と同じことを同じペースでやらなければならないことが苦手だった僕には魅力的に感じた。
 『先生の学校』は全5回の連続ものだった。この学習会では、毎回懇親会もあり、そこでの対話もとても刺激になっていた。振り返るとこの学習会で2つの経験が今の僕を支えている。
 1つ目は、岩瀬さんが懇親会で言っていたことだ。
「それでも彼は次の日クラスを飛び出しちゃうんですよ」
 岩瀬さんの実践は書籍で読むととてもキラキラしていてなんだか魔法のように感じていた。しかし、そんなことはなく日々試行錯誤していたことを実感できた。そんなことは当たり前だと今振り返ると思うのだが、本人の口から聞かせてもらったことは当時の僕にとっては大きな影響を受けた。どんなに認知度がある人だって学び続けている。学び続けている姿に自分は魅力を感じるのだと。
 2つ目は、回数を重ねるごとに参加する人数がどんどん減っていったことだ。この学習会はただ講義を受けるだけではなく、自分で実践をし、レポートを持ち寄りる形式だった。苫野さんと岩瀬さんの話を聞きたいだけの人はどんどんいなくなっていたのだと思う。忙しくて実践できなかったのかもしれない。周りの先生との関係性でうまくできなかったのかもしれない。自分の実践に自信が持てなかったのかもしれない。色々と考えられるとこはあるし、言い訳もできると思う。ただ、僕はこの時に強烈な違和感を感じた。「うまくいかなかったとしてもとにかくやってこいよ」と。
 「教師の学校」で、とにかく行動することが大切。失敗からでも成功からでも学べる。という自分の考えが確信になっていた気がする。

②学びのコミュニティづくり・役割を担う(5年目〜8年目)


 5年目から市の研究会(市教研)で特別活動の部長をやるようになったことと「ヤタイの会」を立ち上げたこと。また、日本特別活動学会での研究に関わったこと。これらがきっかけで学び方が1つ上のステージに上がったように感じる。
 うちの自治体の研究会は規模も小さいし、積み重ねがあるようなものではない。毎年、色々な部に転々とする人が大多数だ。そのような人は研究会ではお客さんのような感覚でいる。実際、僕も5年目まではそうだった。しかし、4年目で入った社会科部会で出会った先輩たちがその感覚を変えてくれた。
 先輩たちは市教研がよりよい学びの場にしようとギラギラしていた。研究授業をどんどんやるような雰囲気でそこから学ぼうという姿勢がビリビリと伝わってきた。そんな中で僕も手をあげさせてもらったのだが、その授業がボロボロ。途中から頭が真っ白になった記憶は今でもある。ただ、先輩たちはチャレンジした姿勢とその後の学ぶ姿勢を認めてくれた。
 毎回、市教研終わりに屋台ずしで飲みながらの教育談義もとても楽しかった。そして、その年度の最後に先輩たちの前で
「特活部会面白くしてきます!」
と啖呵を切って社会科部会を1年でやめた。
 ただ、先輩たちとのつながりを切りたくなくて学習コミュニティ「ヤタイの会」を立ち上げた。
 5年目から市教研特別活動部会とヤタイの会。2つのコミュニティづくりをスタートさせた。

特別活動部会
 実は初任の時にも特活部会に所属していた。ただ、その時の特別活動はお世辞にも特別活動を学べる場ではなかった。理科の実験や音楽の合唱指導などの参加者が単純に楽しいものを集めている部会だった。お客さんとして楽しめる場だったので、先生たちからは人気があり、部員数も当時はかなり多かった記憶がある。
 しかし、大学で特活をかじっていた僕としては、「これは特活じゃない」という思いになり、生意気にも年度末の反省で「特活部会なんだから1回くらい学級会のことやった方がいいと思います。」と発言していた記憶がある。
 そんな特活部会を1年で離れ、4年ぶりに戻ってみると何も変わっていなかった。計画を聞くと楽しい活動の目白押し。そんな中、勝手に部長に立候補し、計画されていたものを全て変更してもらった。今、振り返ると当時本当は部長になる予定だった方がいた。その方がその変更を受け入れてくれたことに本当に感謝だ。
 1年目は本当に1人だった。1人で計画・運営をし、講義をし、研究授業をした記憶がある。師である玉川大学川本先生の力も借りながら特活部会をとにかく「楽しく学べる場」にしていこうと進んで行った。
 市教研の後に社会科部会の先輩と合流して、飲みながら頑張っていることを共有させてもらっていた気がする。そうしていると2年目には社会科部会から数名仲間が特活部会に入ってくれた。そして、段々と特活の楽しさを共有できる仲間が増えていった。

 一方で、川本先生のつながりから日本特別活動学会の発表にも関わらさせてもらった。そこでは、長年特別活動を研究されてきた多くの実践者に出会うことができた。大ベテランの方々から、同世代で物凄く魅力的な実践をしている方、そんな方たちと一緒に学べる機会になった。
 そのような場所で何度か発表する機会をいただいた。当時は任されたからがむしゃらに取り組んでいたが、自分が前で話していることと自分自身の実践に乖離も感じた。そんな良い実践ができてないのに、こんな場所で話していていいのか?という気持ちになった。研究を進めれば進めるほど、素晴らしい実践を目にする。理論の理解は自分の中で進んでいったが、それに対しての実践が伴っていないような感覚になっていった。
 しかし、学会での研究・発表のおかげで自分の実践に対しても見つめ直すきっかけになった。どんなクラスにしていきたいのか?学級会は何のために行うのか?そのようなことを問い直す機会にもなった。
 学会に関わらさせていただいた経験は僕の中で大きかった。ある程度の人数の前で話をする度胸。同じ領域について一生懸命な人たちとのつながり。そして、特別活動とは何か?ということを真剣に考えられたこと。これは今の自分にとって大きな学びになっている。

ヤタイの会
 始めたきっかけは、社会科部会の先輩たちとまだ一緒に学びたい。という思いだった気がする。その先輩たちと話していく間に、「自分たちの自治体の教育をよりよくしたい」という気持ちがわいてきた。
 僕らの自治体は異動の範囲が狭く、19校で回り続ける。ということは、つながりをつくっておくことより良い教育にみんなで向かうことができるのではないか?小さい自治体だからこそできる!!という熱がむくむくと湧いてきた。
 「僕らの自治体を楽しく学び続けられる教育現場に!」
というビジョンのもとに仲間を募った。
 まずは市内で同じ志をもてる先生たちとの実践交流から始めた。PA・TOSS・仮説実験授業など普段では混ざり合わないような先生たちと交流できる場になっていった。
 共通項は同じ自治体で働いている。ということだけ。専門にしている教科も違えば、教育観も違う人たちの集まりだ。それでもお互いを尊重し、学び会える関係性はとても居心地がよかった。
 それぞれが自分のヤタイ(専門性)をもち、そのヤタイが集まる場所。そして、ゆくゆくは自分たちの自治体の屋台骨になれるようにという思いを込めて「ヤタイの会」と名付けた。後付けだが。1番の理由は屋台ずしで飲んでたから。
 そんなヤタイの会の転機はコロナ禍だった気がする。一斉休校。コロナ対応の中で、ヤタイの会のLINEで市内の情報交換が爆速で行われた。オンラインでの飲み会も行い、互いの愚痴も聞き合った。
 この経験から市内のつながりの必要性と重要性を感じ、働き方についても共有してより良くしていくことができる実感を得られた。

 この2つのコミュニティの立ち上げと学会での研究が自分の視座を一つ高くしてくれらように感じる。1人の実践者から、コミュニティを運営するマネジメントの視点が備わり始めたように感じる。

③外への発信・つながりづくり(9年目〜11年目)

 立ち上げから3年が経ちヤタイの会も新たなステージへと進み出した。今までは、ヤタイの会のメンバーで学び合うことに多く取り組んできた。しかし、それでは自治体に大きな影響を与えることは中々難しい。どうすればいいのか考え、ヤタイの会のメンバーが市内の教師に向けた学びの場をつくることにした。その場を通して、じわじわと「楽しく学び続けられる教育現場にしたい!」という価値観を広げていけたらと考えている。
 また、コロナ禍でオンラインの新たなつながりが生まれ、そのつながりから新たな学習会への参加やプロジェクトの参加など、再び自分の思考が外に向き始めている。ただ、初任の時との違いは、個人のつながりを求めると同時に「ヤタイの会」との接点も探しながら外に出ている自分がいる。
 自分のつながりがどのようにコミュニティに還元できるのか。また、コミュニティ同士のつながりから新たな可能性が生まれてこないか模索している。

 ここ数年は①②の段階では想像もできなかったようなことが頻発してきている。今まで点だった活動が線となり、面となっているような感覚だ。とすると、次は何をしたらより面白いことが起きるのか。そんなことを今は考えている。と同時に自分のクラスでの授業づくりやクラスづくりとのバランスも考えなくてはならない。
 今はワークショップ授業に興味があり、市内へ向けて夏に発表も控えている。外での活動と内での活動をうまく関連づけられたら、うまく時間が使える気がする。現状は少しごちゃごちゃしているので、その整理もして進んでいけたらと思う。

と、11年間をざっくりと振り返ってみた。きっと、これ以外にも自分の中に刻まれていることはあるのだろう。
 そして、この先の自分はどうなっていきたいのか。どんな教師になりたいのか。どんな人間になりたいのか。現状考えている個人ヴィジョンは
「自分も周りも変化・成長できるような人(環境)でありたい」
これができていると実感する時に自分は1番幸せを感じている気がする。

どのくらいの範囲に、どのような変化や成長を起こせるようになるかわからないが、前に進んで行きたいと振り返る機会となった。

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