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中動態のメガネをかける

僕が参加している学習サークルLAFTでは、半年1テーマとして学んでいる。今期のテーマは「中動態」。この聞き馴染みのないことについて学んでいる。

主体的でもなく、受動的でもなく、中動態的。
「自分からする」のでもなく、「人にやらされる」のでもなく、「ついしてしまっている」という感覚。
子どもの遊びの始まりによくある、「いいこと思いついた!」という感覚を想像するとわかりやすい。
遊びの始まりの多くは主体的に自分で考えてつくりだすのでもなく、人から言われて受動的にやらされることでもない。
周りの友だちや環境によって、つい思いつくことが多い。このついしてしまうという感覚があるということを知った上で子ども達を見ること。つまり中動態のメガネをかけて子ども達を見られるようになることが、今期のLAFTでの僕の目標だ。

今日は第3回目。『子どもの遊びを考える「いいこと思いついた!」から見えてくること』のブッククラブ。
第5章を中心に話し合った。そこで出てきた言葉で「センス」「ミーニング」「コンセンサス」。やたらと横文字が多くて頭がこんがらがる。今日の僕の理解として言葉に残しておきたい。
「センス」とは、一人ひとりの意味づけの仕方。それは個人や状況によって変わる物。水を見て、喉が乾いていれば美味しく飲む物だと思うし、手が汚れていれば手を綺麗にする物だと思う。
「ミーニング」は一般的に共通で知られている意味。水はH2Oであるということなどだ。
「コンセンサス」というのは、個人のセンスを共有し、ある程度の共通理解が生まれること。1人の「いいこと思いついた(センス)」を他の子に共有し、みんなのいいことになるイメージだ。

 じゃあ、この中動態の考え方を学校現場でどのように活かしていけば良いのか。まず、1番使いやすいと思ったのは、一人ひとりの感じ方考え方つまりセンスは違うということを理解し、それを大切にすること。子ども達の「ありのまま」を受け入れるということだ。そして、「ありのまま」を理解するために子どもたちをよく見て、一人ひとりの話をよく聞くことだ。
 
 中動態を授業に活かすとはどういうことなのか。教師の子供に対する短期的で具体的な目標を持ってしまうと、どうしてもそこへ連れて行こうとするパワーが働いてしまう。だとすると、教師は長期的で抽象的な目的を持って授業を行うと良いのではないか。作家の時間で、「〇〇までに出版すること」という目標を立てるのではなく、1年間で自分にとって書くこととはどういうことなのか自分の考えを持てるようになってほしい。というようなビジョンを持っていること。
 その上で授業の中で「ありのまま」の子どもの姿を見て、子ども自身が感じている現在地と目標地点を一緒に確認し、そのために必要なことを一緒に考えていくスタンスを取れると良いのではないか。
 そういった意味でも、改めて中動態という考え方とワークショップ授業の相性がいいように感じた。子ども一人ひとりの「センス」を発揮できる場が保証されていること。

 また、中動態的な教師のサポートとは、子どもがやっていることに興味を持ち、面白がるということではないかという話に納得した。近くに面白がってくれる人がいることで、子ども達は安心して「センス」をクラスという場に出せる。また、子どもがやっていることに対して興味を持って質問することで「センス」を引き出すこともできるのではないか。
 教師という役割を持って教室にいると、どうしても子供達を導きたくなってしまうし、教えたくなってしまう。しかし、教師という仮面をとって子どもの横に入る必要が中動態を大切にする時には必要なのではないかということだ。

 ただし、これらの話は0か100かではないという話も出てきて、それにも大いに納得した。どうしても、一方が正しくて、一方は正しくないという風に考えがち。自分自身でも、何が正しいのか?という答えを求めたくなってしまうところも正直ある。これ自体が正解主義で生きてきた弊害のようにも感じる。
 0か100かではなくて、バランスをとること。中動態という新たなメガネを手に入れたことで考えられる幅が広がったという風に捉えた方がいい。その上で今までの実践を見直していき、現場での納得解を見つけていくことが大切なように感じた。

 まだ、中動態のメガネはクリアになっていない気もするが、子どもを実際に見ていきながら磨いていきたい。


 
 

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