詩と情熱によって世界を捉える
以前からことあるごとに目にして気になっていた数学者・岡潔と批評家・小林秀雄の対談本『人間の建設』(新潮文庫)を読んだ。この本は帯や裏表紙の解説では「知的雑談」とうたわれているが、両人からほとばしって縦横無尽に披露されている知識や教養は味付けにすぎない。本書でほぼ一貫して語られているのは、人間における情感の優位ということであるように思われた。その流れの中で、詩をめぐっての考え方がしばしば出て来る。
最初に詩についての関心を持ちだすのは、意外にも数学者の岡潔である。
「よい批評家であるためには、詩人でなければならないというふうなことは言えますか」と、いきなり小林に問いかける。小林はすぐさま「そうだと思います」と肯定している。続けて岡は熱っぽく「批評家というのは、詩人と関係がないように思われていますが、つきるところ作品の批評も、直観し情熱をもつということが本質になりますね」と語る。(p24)
さらに岡は「ほんとうの詩の世界は、個性の発揮以外にはございませんでしょう。各一人一人、個性はみな違います」と述べて、数学における個性の問題にふれつつ、詩と数学の類似性を語っている。(p26)
次に詩と詩人について、岡は次のように述べる。
岡潔によれば、情熱と直観のある人間を詩人と呼ぶのだという。ここで情熱のもととなる熱心さが「言い表しにくいことを言って、聞いてもらいたい」という態度だと言われていることに注目したい。これは学問の心そのものといえないだろうか。
また、これに対する小林の返答は、一見岡の発言と噛み合っていないようにみえるが、私にはたいへん興味深く思われた。
ここで小林秀雄が、肉体的な老いに伴うイマジネーションの発達ということを述べている。岡が学問の心と詩人の心との共通点を述べたことに対して、肉体の衰えによって詩と自分とのベクトルが逆転し、学問的探求心から詩的情熱へと転回することを小林は述べているようにも思える。ちなみにこの対談が雑誌『新潮』に掲載された時点(1965年10月)で、岡潔は64歳・小林秀雄は63歳である。老境に入りつつあるといってよい。
かつて私の記事では、三島由紀夫『宴のあと』や鶴見俊輔を題材として、老年における詩への目ざめという事象を扱ったことがある。その際は実業や学問における情熱が詩的表現欲へと向かう事例として取り上げたのだけれども、本書における岡や小林にも同様の傾向をみてとることができる。特に小林秀雄のような若い頃から詩的感覚にすぐれた人物でさえも、詩に対する向き合い方の変化を感じていたことは興味深い事例である。
次に再び、話題として数学と詩の相似が取り上げられる。
として、詩人における言葉への信頼と数学者における数への信頼がアナロジーで語られる。すなわち言葉と数は、混沌とした世界の仕組みを認識した結果、どのように表現したかという形式の違いに過ぎず、問題はその奥深くに情熱と直観が実在しており、それらを支えているというのである。ここでは巷に言われる文系とか理系とか、主観的とか客観的という概念さえ超越されている。数字を用いれば客観的であるという素朴な誤謬がいまなお、実業はもちろん、ある種の学問にも根強く蔓延っているように思われるが、数学者の岡からすればそうではない。数は言葉と同様、情熱と直観を具現化するための方法なのである。
言葉の力について小林秀雄は以下のように語っている。
言葉が連なり、文章となって世界を築いていく―
本書のタイトルにいわゆる「人間の建設」とは、「情熱による人間の建設」と加筆してもよいと思われるほど、この対談における情熱の重要性は大きい。情熱が直観を生み、直観が言葉や数になり、世界を形成してゆく。それは直観を具現化するための、詩的な営みでもある。すなわち学問と詩との距離は、案外近いのかもしれない。どうであれば我々は、詩的な学問を軽蔑する必要もなければ、数を畏れたり信仰したりする必要もないはずである。