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呪いは存在するのか

7時起きで仕事したがな。さんざっぱら歩き回って蚊と戦ってきた。
蚊嫌い。滅ぼすべし。慈悲はない。
正直、私が独裁者なら研究所に一定数残して、その他の蚊は絶滅させる政策を採ると思う。蚊諸君は私が独裁者でないことに感謝してほしい。

そういえば以前Googleの親会社のAlphabetが人工的に不妊処理した蚊を百万単位でばらまいてるニュースを見た。
そのプロジェクトタイトルが「Debug Project」。
さすが自由の国アメリカ。蚊を滅亡させるプロジェクト名称を「デバッグ」というところに(意味は正しいが)盲目的な恐ろしさを感じる。倫理とかないんか。
とはいえ、ぜひ新たな実験地区に杉並区を指定していただけませんかねぇ。


昨日に続きホラー小説を一冊読む。いいですね。小説。ホラーと小説って相性が良いなと思うのは、小説にはイメージや声がないところかもしれない。
恐怖って突き詰めると自身の「想像力」がエンジンになる。イメージや声は、ソレが存在するが故に想像力は一定値までしか出力できない。小説は文字だけ。だがその分、読み手がどうイメージするかに上限がないので、その想像力に非常にレバレッジが効く。結果、小説むっちゃ怖い説になる。
あと読む時間が長くなる分、孤独なメディアだし。よーしあと4冊。


「呪い」は存在するのか?という疑問に対して私は即答で「YES」と答える。呪いはねぇ、存在するのですよ。ひひひひひ。
私の思う呪いは
1:伝えた人、または自分を呪縛する合言葉
2:認知バイアスを大きくネガティブ方向に歪める概念
ぐらいの意味合いなんですけどね。私「呪い」という概念が大好きである。これも抽象概念が脳内でレバレッジを効かしている状態だからだ。

「3以上の自然数 nについて、x^n + y^n = z^n となる自然数の組 (x, y, z) は存在しない」
非常に有名な予言だが、これは1のケースの呪いの代表格だと思う。この呪いが解かれるまで実に330年もかかった。その数百年の間、数多くの人生をかき乱し、無慈悲に、絶望の果に、人々を殺してきた。これを呪いと言わずになんというのか。決闘で死んだやつもいたな…。

2のケースなんかは分かりやすい呪いだな。
小さな頃から性根が螺旋形状だった私は小学校で怪談話をばらまくことに勤しんでいた時がある。その頃得られた教訓は「集団ヒステリーを作り出すのはいかに容易いか」だった。あんまり導いてはいけない教訓だった気がするが、今もその感覚は変わらずある。というかそれで飯を食ってる気もする。
言い訳するならヒステリーを生み出すことが目的ではなく、その感情で物語を加速させてエンターテイメントにするという意味なので、悪用してるわけではない、と本人は思っている。

上で挙げたフェルマーの最終定理はドラマがつまりすぎてて周辺エピソードだけでお腹いっぱいになるぐらい知的好奇心の大鉱脈である。
この辺のドラマを実にドラマティックに、かつ、数学部分も中学生数学レベルの私にも分かった気にさせてくれる奇跡の良書があるので、サイモン・シンの著書を勧めておく。サイモン・シンは「ホントに何もわからない素人にホントに分かった気にさせる魔術師」なので「ビッグバン」とか「暗号」とか気分だけ分かった気になりたいときはぜひ読むと良い。


あ、ゾンビ観覧車やりますよ。
ゾンビ観覧車ってなんやねんとお思いでしょうが、地獄です。
観覧車乗ってる間にはるか上空でプロジェクションやら振動やら立体音響で襲いかかってくる地獄です。
エキスポシティで8/1から。


だいたい今日の分は言い切ったかな。
このnoteの使い方もより良くしていかねばならん気がする。
もうちょっとブランディングとか熱意とか意識や視野や視座みたいなものを込めてもよいのではないのか!
が、残念ながら残り余白はそれを書くには狭すぎる。


来世、救われます。