うなぎとオンライン演劇

今日は誕生日だったんだけど、誕生日だ嬉しい、という感覚は流石に風化した。冥土の旅の一里塚という方がしっくり来る。「死」というより「能力的な活動限界」への恐怖がある。
今年一年で何を成し遂げられて何を成し遂げられなかったか。
年に何回「やり遂げた!」という感覚を得られるか。活動限界はその打席に立てる期限だ。
いくら著名な人でも「この人のピークはこの辺だったな」と感じるコトもある。どんな偉人でも、永遠に活躍できることはない。
スピルバーグにでもなれば71歳でも「レディ・プレイヤー1」が作れたりするので反証は可能だが、自分がスピルバーグクラスだと言い始めたらノルマンディー送りの刑だ。
「結果を出したい」というのは、いつまでもある。


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私の誕生日はうなぎを食べる日と化している。
今夜、私がいただくのは「森のうなぎ」というブランドのうなぎだ。
吉牛のうなぎより格段にうまい。脂の質が違う。あと、もちもちしてる。
こいつを嫁が焼き鳥屋の大将ぐらい火を加減しながら焼いてくれる。誕生日万歳。
ちょっとカリッとしてるぐらいの焼き加減が一番美味しいと思っている。お店レベルになる。
うなぎが相変異を起こして大量発生してくれないかな。昔のように罪悪感なく食べれたらもっと美味しいのだろう。うなぎは徐々に食べれなくなる訳で、それもまた歳を取る弊害と言える。


小学生低学年のころ、地域行事で「近所の川にうなぎを大量放流し、家族で手づかみで捕まえろ!捕まえた分は持って帰ってよい」という、今なら大富豪のお戯れみたいなイベントがあった。
その時分かったことを大富豪に教えてやる。うなぎは手づかみでは全然捕まらんということだ。ヌルヌルのヌル。何時間もコントのように手の中をくぐり抜けるうなぎ。
己の、小学生の手の無力さを味わう稀有なイベントだ。
そんな中、父親が威厳を見せて2匹ほど捕まえてた。


帰り際、2つ上の姉がそのうなぎに名前をつけた。
姉はお風呂で飼うと言い張る。
家に到着し、泥を吐かせるために風呂桶に放たれた2匹のうなぎは確かに可愛い。ただ、どっちがどっちかは名付け親の姉も理解してなかったと思う。

そして当然のように食卓に上がる2匹のうなぎ。
ふっくらと湯気を上げる2匹のうなぎ。
100日後に死ぬのでもなく、7日後に死ぬのでもなく、初日に死ぬうなぎ。
姉はトラウマレベルでギャン泣きしていたが、やっぱりその頃からうなぎは美味しかった。ウチの親は、姉の涙よりうなぎの味を選んだ。うなぎの美味しさはトラウマをも超えていく。

なんで長々とうなぎの話をしているのだ。
うなぎだけに掴みどころのない話だ。


…?


オチた感じがしないのでもう少し別の話をしよう。


弊社エンジニアの久保田がプライベートで関わっている演劇のシステムを少しだけ技術デモとして見せてもらった。
この演劇は、リアルの劇場にもお客さんがいて、オンラインでも視聴者がいるというスタイル。
ただその2つの体験は全く異なる。

リアルの劇場でも演者とモニター、いくつものスクリーンが重なり合って演劇が進行するが、オンラインではリアルタイムにストリーミング配信された映像がバーチャル空間のいくつものプレートに配置され、その空間内を自由に視点変更できるシステムだ。
たった一日の演劇プログラムのために、50人のオンライン視聴者のためにこのシステムを作ったらしい。

やばい。プライベートで気軽に作る久保田やばい。没入感が今までにない。あと、こんなことをやりたいという演出家がすごい。

あんまりにも感動したので、演出の先生に「この凄さは世に出すべきだ!」と伝えてもらうよう久保田に伝える。

最近いろんなオンライン演劇に触れさせてもらい、急激な発展を遂げていて非常に感銘を受ける。一方で「ZOOM縛り」みたいな印象もある。配信側のシステム上限というか。ZOOMの中で何ができるか大喜利というか。テクニカルも多少やってる身としては上限の感覚もなんとなく分かる。

そんな中、配信システムまで全部作っちゃうってのは、この手の上限を超える新しい一手だなと思った。5四金。
もちろん配信の安定感とか収益モデルでの採算とか考えると、今すぐは難しいのも理解できる。
が、私達は異常に飽き性で、そして新しいものに底抜けに貪欲だ。
早かれ遅かれ、オンライン演劇もそんなテクニカルの進化に巻き込まれていくのだろう。
(弊社の久保田に相談するといろいろできるかもですよ)


なんとなく、来年の誕生日にこの日記を見直す気がするな。
おーい、一年後の私、結果出せてるかい?
たぶん読んだ瞬間にイラッとしてこの日記を消すだろう。
はい、今年一年もがんばります。

来世、救われます。