「普通コンプレックス」
それは、目立ちたい自分と目立ちたくない自分の戦いから始まった。中学生~高校生時代の話。
元々身長が高く体格もよい私は、何もしていなくても周りにヒソヒソ言われることが多かった。
それが、たまらなくイヤだった。
周りの目や評価を気にしてしまう性格は、この頃に急成長したものと考えている。
その一方で、自分も何か明るい意味で目立ちたいとも思っていた。要は「悪い意味で目立つ」のはイヤだけど「明るく目立つ」のであれば歓迎していたような感じである。
でも運動神経もなく、やりたいこともなく、友達とうまくいかなくなりがちの98%孤立女子だった私は、明るく目立つなんて夢の話だった。
自分の思うような人間関係は作れず、未来も描けず、居心地も悪い。そんな学校生活だった。『部活が楽しい』と話す子や『学校に来ているだけで楽しい』と話す子が、同じ教室にいるのに別世界にいるように感じられて、眩しかった。
自然と学校から足が遠のき、かといって自宅で過ごすことは許されず、色んな場所を1人でフラフラする毎日だった。
「どうして私は、普通に学校生活を送れないんだろう」
「普通の女の子になりたい」
よく思っていた。
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あれからしばらく経って、私もとっくに(年齢だけは)いい大人になったが、あの頃から胸にあった“普通になれない”という感覚は、変わらずに残ったままだ。
体格的なコンプレックスは殆どなくなった。でも、それ以外―例えば存在そのものが―どうしても普通じゃない自分を感じている。
相変わらず天邪鬼というか、ひねくれ者というか、多数派になりたいのに少数派を選んでしまう自分。
普通の人になりたい自分と、普通の感覚に抵抗がある自分が、ずっといた。そしてこの分離を緩和できる手段が、わからなかった。
もう、そろそろ認める時期なんだと思う。いいかげん。
本当は普通の人になんか、なりたくないのだ。とっくの昔から。
仮に本当に普通になりたければ、私はその枠に当てはまろうとしていたか、その枠になっているはずだ。でも、それをしなかった。できなかった。
それが答えだ。
普通になりたいという感覚が強くあったのは、現実が楽しくなかったから。嫌だったから。周りに「からかいの言葉」が多かったから―だ。
現実が楽しければ、嫌じゃなければ、周りからの言葉がなければ―おそらく、普通になりたいなんて感覚は起こらなかったのだろう。
つまり私の現実が「普通に憧れている状態」を作り出していたのでは、ないか?
感覚が先で現実が後―ではなく、現実が先で感覚が後にできたものでは、ないだろうか。少なくとも、あの頃は。
普通になりたいという感覚はもう、意識しすぎなくていいものなんだと思う。
自分の感覚だからといって、全部いつまでも大事にしては、やがて苦しくなる。すると、自分の感覚のどれが要らなくて、どれを選択したら良いのか考えられなくなる。
好みのタイプが変わるように、聞く曲が変わるように、趣味が入れ替わるように、自分の感覚も変わっていい・変えていいものなのだ。
過去を何度も再生するのはやめよう。それが呪いなら、尚更やめよう。再生をやめて、再生させるエピソードも横に置いて、その状態で「私のこれから」を考える。
その感覚がやっと、定着し始めている。
今年も残り一カ月。自分の感覚の整理も進めて、いけたらいい。