林智子 個展「虹の再織」 / 瑞雲庵 感想
2021年5月
さてさて。気づいたらしばらく経ってしまったのですが、ようやく書くことにします。5月に京都北山の瑞雲庵で開催されていた林智子さんの個展、「虹の再織」に行ってきました。彼女の作品を実際に見るのは初めてで、なんの予備知識もなくただ友達に勧められたから行ってみよう!という気持ちで行ったのですが、現地で「現代美術の皮膚」展(国立国際美術館、2007)に出品されていたということを知り、嬉しくなりました。というのも、一年ほど前に大学の講義で知った《Mutsugoto 2007》が気になり、Googleに「Tomoko Hayashi」と入れて検索してみたのですが、作者の情報も作品の情報も満足に得られず…だったので、あの作家さんだったのか!と驚きました。
個展会場となっている瑞雲庵(ずいうんあん)は、京都地下鉄北山駅から歩いて15分ほど。築100年を超える古民家で、西枝財団の助成事業展覧会の会場になっているようです。これをきっかけに西枝財団のHPを覗いてみたのですが、色々と興味深いものが見つかりました。
展示空間は母屋の一階部分と離れの蔵、屋根裏のような二階部分という大きく三つのパートで構成されていました。自然光が差し込む一階と、暗いが天井が高くて開放的な蔵、窓がなく天井も低い閉鎖的な二階と、それぞれの空間にかなり個性があるな、という印象。美術館の味気ない白壁とフローリングに慣れてしまいがちですが、空間自体にはじめから個性がある古民家は、良くも悪くも作品の印象を大きく左右します。今回の展示は、テーマの発端に”故人の祖父”という存在があったため、展示空間の個性がプラスに働いてたように感じました。
さて、ここから展示の具体的な感想を書いていきたいのですが、(なにせ二ヶ月も前で)はっきりと覚えていないことも多いので、当日に書いた走り書きの感想と出品リストを参考に書いていきます。(誤情報を書く可能性もありますが、あくまで個人の主観に基づいた感想なのでお許しを。)
そもそもこの展示のタイトルである「虹の再織」について。私が行った時は作家さんが在廊していたのですが、この”虹”はニュートンが発見した光のスペクトルを指す、というような話をされていたような気がします。科学技術の介在によって、人間は自然を細部にまで分解し、理解を追求し続けてきました。こうして分解され、数字や式で表された「自然」には、本来自然が持っていた含みや揺らぎ、偶然性といったある種の曖昧さが失われてしまっているように感じます。(曖昧さ、という表現はなんだか薄っぺらく聞こえてしまいますがひとまず置いといて)科学技術によって削ぎ落とされてしまう自然の曖昧な部分は、人間の曖昧な部分である「感情」や「記憶」との結びつきが深いのではないのでしょうか。(例えば、雨上がりの匂いで春の訪れを実感するとか。夕暮れの空を見てなぜか切ない気持ちになるとか。)こうした曖昧な部分を、科学技術を用いて再現、または呼び起こすことは可能か、というのがこの展示のテーマではないかと私は解釈しました。個展HPにはこのように記載があります。
かつて詩人のジョン・キーツは、ニュートンが光のスペクトルを発見したことに対して、虹をほどいて、ばらばらにし、詩情とその美しさを失わせたと嘆きました。このほどかれた虹を再び織ることはできないでしょうか。林は自然、科学、芸術、思想など多様な領域を独自の視点で再編し、それらをコズミックな織物として提示することを試みます。
個人的に最も印象に残ったのは、《prurient apparitions or beautiful contrivances》という作品。(下の写真)
左の花はマダガスカルの着生蘭「アングレカム・セスキペダレ」という花をモチーフにしています。花の下部につながったガラスの管の中には蘭の香りの香水が入っており、水晶から繋がっているチェーンを引くとその香りを嗅ぐことができます。この蘭は、特定の蛾に向けて夜間にのみ芳香する特性があり、二つ種は共依存的な進化の過程を遂げて来たようです、といったようなことを作家さんに説明していただきました。造形の繊細さと香りという繊細さが相俟って、小さいながらもとても印象的な作品でした。
有名な話かもしれませんが、香りの再現は非常に難しいようです。例えば、金木犀の香水を作ろうとして金木犀の香りを化学的に分析し、その通りに調香しても同じ金木犀の香りにはなりません。また、同じ香水をつけたとしても、体温や体臭の違いなどからわずかな個人差が生まれます。そして、香りにまつわる話で有名なのが、記憶をなくす過程で一番最後まで覚えているのが匂いだ、ということです。嗅覚は五感の中で唯一、脳が記憶や感情を処理する部分と直接結びついているのだとか(真偽のほどは分かりませんが)。普段香りの記憶をわざわざ意識することはほとんどないですが、普段忘れているからこそ、ある香りを嗅いで自分の記憶が呼び覚まされる時の感覚は言い表せない心地よさがあります。
この作品の香りは、自然界に存在する蘭の香りを人工的に調香(再現)したものですが、私の嗅覚には自然の蘭の香りとほぼ同様のものとして捉えられます。その香りは、特定の蘭と蛾の共依存的な関係の中で培われて来たものです。香りを通して関係し合っている蘭と蛾には互いの記憶が遺伝子レベルで刻まれているのだろうか、といったことを考えていると、自分が大きな自然の中にすっぽりと包み込まれたような気分になりました…。
そして、香りを扱っているという点で上の作品とつながりがあるのがこの《暗香透影ーあめつちのむすび》(下の写真)。
部屋の真ん中に配置されたケースの中に入っているのは、現在絶滅が危惧されている品種の藤袴。万葉の時代から日本で人々に愛されてきた香水蘭だそうです。ガラスケースの中の藤袴はドライフラワーのような状態になっており、近づくと桜餅のような香りがします。藤袴は生花の状態ではほとんど香りはなく枯れてから匂いを放つと聞き、マダガスカルの着生蘭が芳香することで自らの命を繋いでいたのとは対照的だと感じました。自らの命が断たれた後に香りを放ってその存在感を強めるという、「死の香り」とも言うべき香りですが、「死」という言葉の重みを甘さと軽やかさで塗り替えていくようでした。
写真のように藤袴の下は鏡になっており、上の写真ではほとんど見えなかった布の模様が反射してよく見えるようになります。鏡ごしに見える藤袴の群生や、草木染めの布で外との境界を曖昧にした空間は、私にとっては「死」を強く感じさせるものでした。
感想を書いているうちに様々なことが思い出されて、まだメモの内容の半分ほどしか書けてないですが、今回はこの辺りで。実際に書く前は、展示全体を「抽象の具体化→抽象の再構築」という視点から振り返ってみようと思っていましたが、色々思い出して行くうちにそんな簡単に言語化できるものでもなかったなあとか思いつつ。。
2021/07/03