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「行事がなくてなってよかった」なんて言うのは、誰のためだ?
出口は、きっとそこにあるだろうけど、ここから出たくない時もある。
でも、ここに居続けたからと言って、光が差し込む保証もないけれど。
2020年6月24日。今年の一年の具体的な見通しが出された。一気に体から力が抜けてしまった感覚になった。
行事などに追われなくなった今の学校が本質だなんて言っている人たちもいるけれど、ボクには、なかなかそう思えない。
もちろん見直すべき行事。行事の準備はあるし、ボクも行事でしんどい思いをたくさんしてきた。けれど、ボクらの日常の中にハレとケがあるからやっていける部分があるように、学校の日常の中にもハレとケが必要なんじゃないか。
いやいや学校の日常や、授業で、ハレとケを創り出せばいいんじゃないかという指摘もあるかもしれない。そんなことまで、学校が引き受ける必要はないという指摘もあるかもしれない。
確かにそうかもしれない。
でも、そんなことを言ってしまうのは、教師の視点じゃないか。学校は、教師のものじゃない。子どもたちのためのものだ。
もちろん学校のいろいろをそぎ落とすことで、教師がやりたいと思うことができたり、教師自身が働きやすくなったりすることで、子どもたちとの関わりがより充実したものになるだろう。
だから間接的であるけれど、行事に追われなくなったことが「子どもたちのために」なっているかもしれない。
ボクは、目の前の子どもたちのことを想像する。目の前の子どもたちの思いを想像する。
行事に追われなくなった学校のことを、きっと子どもたちは、この状況下だから…と納得するだろう。その裏にある悲しい、寂しい思いを隠しながら。小学校生活最後なのは自分たちの学年だけなんだだから。来年はやれるんだから。夏の甲子園だって中止になったんだから。悔しい思いをしている人たちはたくさんいる。なんてことを思いながら。
ボクはそんな子どもたちのことを想うと、胸が苦しくなる。切なくなる。
だから行事に追われなくなったことを喜べない。
でも、でも、悲しむのは今日だけにしよう。
明日からそんな中で、どんなことができるのか。精一杯考えてみせる。
今日のアルバム。