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クリスマス

夜景が綺麗だと感じるようになったのは、人を好きになってからだった。高台から見える街の灯も、街路樹を彩るイルミネーションも、きらきらと目に映るようになっていった。

子供の頃、それらはただの電気だと思っていた。星の灯りと比べて何も美しさを感じない、汚い、環境を汚す人間の営みだと思っていた。
大人になり、街明かりに感じた一瞬の心の動きが私はとても嬉しかった。

それから何年も経ち、人混みの中、まばゆい明かりに照らされた並木の横を歩きながら、イルミネーションを見ても何も感じなくなっている自分に気がついた。

思春期からしばらくは、恋人がいないことを嘆き自虐的な毒をネットで吐いて、同じ気持ちの人達とお祭りのように笑い話にして慰め合っていた。非モテ、リア充爆発しろ、クリスマスシーズンの恒例行事。ネット黎明期の悪ノリの文化が私には居心地がよかった。

しかし、そんな嘆きや苛立ちさえも感じなくなっていた。
私の精神は幼少期に戻ってしまったのだろうか。

都会の喧騒の中を足早に進みながら、唐突に、星が見たいと思った。天気のいい冬の夜に車を借りて、山奥のキャンプ場に一人で行って、空を見上げたら、そこには何が見えるのだろう。
ベテルギウスの赤い光が無性に見たい。オリオン座と北極星しかわからないけど、星座を探したい訳じゃなくて、六等星まで見えるような暗い夜の闇の中で、ただただ私は星が見たい。

高速バスの窓の外に遠く光る夜景を私は眺めている。
山の合間に現れては過ぎる街々の明かりを飽きずに見ている。
結局、あれから星を見に行くことはなかったが、日々は何事もなく過ぎ去っていった。

子供の頃、ほしいものがわからなかった。基本的に何かを買ってもらうことは少なかったが、そもそも何かをほしいという気持ちがわからなかった。ほしいものを質問されると困っていたし、誰かに何かをもらったら喜ぶものだと思っていて、それが嬉しいということなのだと思っていた。

今、バスには私と一緒にクリスマスプレゼントが揺られている。
温度のない無機質な物なのに、受けとったそれを胸に抱えると、温かいような気がした。おもちゃ屋ではしゃいでいる子どもの気持ちが初めてわかった。
イルミネーションには相変わらず心が動かないままだったが、今は夜景を眺めたいような心境ではあるようだった。

私は大人の女性なのだから、もっと相応しいものをほしがるべきだったのだろうか。ふとそんな問いが浮かんだ。
美しいネックレス、素敵なワインやお洒落な雑貨、高級なコスメ。何か高尚な、特別な言葉。私は何をほしがるのが相応しかったのだろうか。

相応しい何者かになんかなれていない、と思った自分が可笑しい気がした。おもしろくて、気がゆるんだのか笑いが止まらない気持ちになった。
心の中でひとしきり笑っていたら、反転するように、唐突にボロボロと涙が溢れて止まらなくなった。

夜景だかトンネルだかわからない窓の外の風景が、滲んで光って流れていった。