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「占い」にしたらもったいない
観命学を学びだして少し経った頃。
命式を出して、自分なりに解釈することが出来るようになり、「これはすごいものだな」と、熱中した。
気になる有名人の命式を、手当たり次第に出しては、その成功や失脚の謎が解けたような気がして、「なるほどな」と悦に入る。
けれど、とにかく「知りたい」「学びたい」という欲が、ある程度満たされてくると、答え合わせも叶わなければ、本人に還元できるものでもない、自己満足であることに、虚しさを覚えるようにもなった。
(勉強のためには必要なことだったし、有名人の命式を例に出して説明すると納得してもらえたりするので、決して無駄な経験ではなかったけれど)。
その点、身近な人の鑑定は、本人の感想を聞くことが出来るし、本人の関心ごとや悩みにフォーカスして深堀することも出来る。
それが楽しくて、友人や職場の同僚の命式を、積極的に鑑定していた時期があった。
ちょうど、家庭のことで悩んでいた同僚の相談にのったときに「よかったら命式というものを見ることができるよ」と、その人とご家族の命式を出して説明したのが始まり。
そこから、私の鑑定は、なかなかの評判を呼び、伝え聞いた同僚や、その家族や、恋人や、友人や……の命式を鑑定して。
反応が面白いし、感謝されるので、こちらも楽しくて、頼まれれば断らず鑑定をしていたけれど、しばらくやってみて感じたのは、解決したい課題があるわけではない、興味本位の人の命式を鑑定しても、お互いあまり有意義じゃないな、ということ。
「そうそう! あたってる!」とはなるけれど、それはもうわかっていることなので。命式を出して、伝わるように説明を考えて…という労力に見合うものではない。
鑑定された側も、特に悩みがない場合は「うん、あたってる(それで?)」で終わってしまう。
観命学に限らず、「命占」に分類されるものは、地図のようなものだと思う。
何度鑑定しても、地図自体は変わらない。
本人がどんな方向に進もうとするかで、地図の中のどこにフォーカスするかが変わり、そこから読み解く物語が変わるのだ。
本当は、地図の成り立ちと読み方を、本人に理解してもらうのが一番いい。
けれども、そのためには時間もかかるし、本人の負荷が高いので、それはなかなか難しい。
なので、鑑定するときには、
これは占いではないです。
「あたっている」「あたっていない」ではなく「起きていることを理解する」ために使います。
命式の情報量はとても多いので、全部は伝えられない、説明しても理解しきれないので、都度相談してください。
ということを説明してはいるけれど、鑑定結果に関心が向いているタイミングなので、そこが聞き流されている場合は結構ある。
先日も、数年前に鑑定した同僚に「占い出来てすごいよねー」と言われて、思ったこと。
「占い師」と呼ばれてもいいし、そのほうがわかりやすくて楽だったりもするのだけれど、それでは鑑定する側もされる側も、もったいない。
だから、私は立派な「相談役」になりたい、と思っている。