なんでも、じぶん次第ということ
ホイアンの街で5日間すごしたからといって、ベトナムのなんにも知ることはできていないのだ。現地の方とお話しする機会があったからといって、ベトナム人を理解できたわけではないのだ。
軽率に語りたがってしまうことは愚かだとおもっているけれど、それでも「おもったこと」を記録することは、それらを忘却の彼方へやるよりもましだろう。
そんな気持ちで、「ベトナムを観光しておもったこと」を綴ってみよう。
ホイアンの街をはじめに歩いたとき、騒々しいクラクションと駆け回るバイクに圧倒された。落ち着かない。それにしても老若男女がバイクを飛ばしている姿からは、電車で仮眠をとる日本人からよりも「エネルギー」をかんじる。
ベトナム人は綺麗好きだ、という印象をもった。「汚らしいアジアの街」という偏見は雨季特有のシャワー後の街をみてすっかり覆されてしまった。
というのも、雨があがると彼らはたちまち箒を手に道路や店を掃除しはじめるのだ。だから地面は濡れていてもゴミは隅にまとめられて清潔感がある。
ビーチのデッキチェアなんかも、雨が降るとクッションを片付け、あがるとみると再びクッションを丁寧にセッティングする。
そして掃除の行き届いた市場を歩いて、新鮮な野菜や魚介、肉をみるとやはり、「新鮮な食材が手に入ること」のもたらす幸福感は高そうだ、と感じる。
地産地消て、日本でも言われるけど、ここではそれがあたりまえに行われていて、市場でおばちゃんが精製したココナッツミルクを買ったり、精肉を量り売りしてもらったり。魚介はぜんぶ釣り上げられたままの姿でお買い上げ。でもって、フォーやなんかに添える薬草なんかは庭に生えている草、もとい雑草を摘めば良いわけ。
言うなれば、オーガニックと地産地消が根づいた食文化なのである。
その土地で採れたものを食べて暮らす。人間の本来あるべき姿。
もう少ししたら日本のような食料自給率の低い国は貧しさにあえぎ、新鮮な食材の豊富な途上国と立場な逆転するんじゃないか。それが言いすぎだとしても、地産地消の社会に回帰する動きは強まるだろう。
日本でもこんな食文化が実現すれば良いなぁ、わたしもいつか都市農業をはじめられるように頑張ろうかなぁなんて、思ったのだけれど。
昨日はベトナムに17年在住しておられ、観光本も出版されている隈野史朗さんにミンソン遺跡とダナン市街を案内してもらい、近代の現実をあらためて認識した。
というのも。
日本語と英語のみならずベトナム語とタイ語をあやつり、ベトナム人の日本での就労支援もされている史郎さんに言わせれば、ベトナム人が勤勉で綺麗好きというのは金に担保されたものでしかない(つまり金を持っていない人には冷たい)し、食文化にしても化学調味料がかなり普及しているとのこと。実際にダナン市街のスーパーに行ったら日本製の化学調味料がずらりと並んでいた。
ホイアンは高さ制限など旧市街保護のまちづくりが行われていたけれど、ダナンは高層マンションやリゾートの開発が進み、数十年後には今の日本のような、近代的な社会が成り立っているのだろうな、という兆しがみえる。
そうかそんなもんかぁ、と、途上国への過剰な展望を覆され落胆するわたしたちに史郎さんは「結局はなんでも、じぶん次第なんですよ」とくり返す。
いかに考え、選択し、行動するか。
流行にながされず、じぶんの道を切り拓けるか。
わたしはいつまで考えつづけるのだろう。「考える」という逃げなのではないか。
でも、考えているといいながら、自然と道は遠くにみえてきているような気もするこの頃だ。
なんにせよ、じぶん次第ということ。至極まっとうな考え方だとおもう。
じぶん次第でものの見方は180度変わる。
もっと、「じぶんで興す」ひとになりたい。恥も外聞も捨てる。