私がヨロイを着て守りたかったもの(1)
前回はヨロイのイントロでした。いよいよ、私の中での本論に入ろうと思います。
今まで私のヨロイの内側に隠していた弱い自分って一体何だったのか?ってことです。
それは学歴ってやつ
1980年の春、18歳の私は大阪府箕面市にあった大阪外国語大学の図書館5階のLL学習室から春の光が眩しい中庭に集う楽しそうな学生たちをコンプレックスいっぱいの気持ちで見下ろしていました。
大阪外国語大学って、国立大学の統廃合で現在大阪大学に吸収され、単科大学としては存在しません。しかし当時は東の東京外国語大学、西の大阪外国語大学。アジア系の言語に強い外国語大学としての存在感がありました。
私には、大阪外国語大学第二部外国語学部イスパニア語学科に合格し大学生活を始めたのです。ここをよく読んだ方は「おや?」とお気づきになるかもしれません。
第二部外国語大学というのは、夜間部のことで昼間仕事を持った人が夜学びにくる5年制の学部だったのです。
文字通り志の高い向学心のある人たちのための学部に、なぜ私がコンプレックスを感じていたのでしょうか?
大学受験、浪人はしなかったけど
私は小学校の頃から算数が壊滅的にダメでした。中学でもひどいものでしたが、英語は成績が良かった。数学の悪さを文系科目で何とかカバーして高校まで来ましたが、文系の中でも現代国語とは古文とか漢文はダメで、英語と世界史が最後の砦って感じでした。中学の時に読んだ種田 輝豊さんの「20か国語ペラペラ」という本を読んで英語以外の言語に興味を持ち、種田さんが学んだ東京外国語大学を考えましたが、私の成績では夢のまた夢。それどころか入れる国立はどこもなかったのです。
共通一次の点数はこれまたガタガタ。
浪人はすまいと、私大を3つ受験し2勝1敗。でも当時のうちの経済状況ではいけたかな〜?(今度改めて母に聞いてみよう。)で、どういう経緯だったか忘れたのですが、大阪外国語大学の二部(夜間部)なら私の成績でも入れるということで、受験し合格しました。
合格はしたけれども
ということで、とりあえず二部に入り勉強して3年生から4年生になる時に昼間部の編入試験合格を目指して勉強することにしました。ここらへんの経緯はあんまりヨロイとは関係ない気がしますので割愛します。
バイトも仕事もせずに朝から図書館に行って勉強ですが、とにかく周りの昼間部の学生たちが眩しく、そんな中で一人勉強するなんてとても耐えられず、ギタークラブというサークルに入ってギターを弾いてました。そこで出会う昼間部の学生たちは皆明るく(見えた)頭もよく彼ら彼女たちと一緒にいるとすごく引目を感じてたものです。でも、そこにいてヨロイは着る必要はなかったのですが、学外にでて、「大学どこ?」と質問された時に、ヨロイの必要性を感じ始めました。
18歳の最初のヨロイ
「にいちゃん、大学どこ?」「大阪外大です。」「お、国立やんか、賢いな。」「あの、夜間の方です。」「なんや、夜間かいな。」
「なんや、夜間かいな。」という言葉の刃に耐性を持っていなかった私は、ヨロイで武装することにしました。なるべく外部の人とは学校のことは聞かれないようにしようって。
この人は、別に私を傷つけようと思ったわけではないでしょう。でも、私はその言葉を刃と捉えて私なりに傷ついたわけです。
23歳、就職シーズンがやってきた
今でもかもしれないですけど、当時は大学3年の後半だったかリクルートが就職情報誌を無料で送ってきて、昼間部の友人宅に行くと就職情報誌がタワーになっていました。私は。。。来ない。そう、リクルートは夜間部の学生には送ってこないんです。リクルートに電話すると「あー、夜間部の学生さんはすでに就職しているって前提ですから送ってないんですよ。住所教えてくれた送りますよ。」
なんか恥を忍んで送ってもらいました。
就職ももう連敗に次ぐ連敗。当時私が着ていたヨロイでは間に合わないくらい満身創痍になりました。