【感想】『王国(あるいはその家について)』
ずいぶん前に人に勧められながらついぞ観に行けずじまいだったものを、先日ようやく早稲田松竹での上映で観ることができた。日ごろ映画を観ることも珍しいながら(本当はもっと観たいと思っているのだけれども)、さまざまに感じ入るところや考えるところもあったため、人の勧めもあり、少しそれを纏めてみることにした。
当然ながら作品の全体について言及している。ネタバレ(?)などを気にされる方はご留意いただきたい。
『王国(あるいはその家について)』という映画をもっとも印象づけるものは、役者が台本を読み合わせ、稽古をしていくというシーンが連綿と繰り返される実験的な構成であり、あるいは友人の子どもを川に突き落としてしまったという主人公の内面に纏わる物語だろう。
だが同時にこの作品は、記憶と言葉、そしてそれらによって形作られようとする「真実」に纏わる、根源的な体験としてわたしには捉えられた。
作品は、主人公・亜希が友人の子を殺した罪に問われ、調書を取られるシーンから始まる。そこからして、既に象徴的だ。
ここで行われていることは、ある出来事を、供述というテキストを通じて「真実」として定めようという手続きであり、しかし亜希にはみずからが成したはずの供述が、何のためであるかをうまく飲みこめずにいる。
異議はないかと問われて否定も肯定もしないまま、ただ署名のためにペンを執る亜希の茫洋とした表情は、どこか人間らしい表情を失っているようでもある。それは、亜希がこの対話に含まれているはずの意味というものの一切を、捉えかねているがためであるようにも思われる。なぜ、このような供述を行っているのか。なぜここにいるのか。なにを問われているのか。あるいはどうしてまだ、ここに自分がいるのか。生きているのか。その一切を喪失した、荒漠そのものの相貌。
亜希にとって、調書に記された自らの動機は、それらの致命的な問いの数々を解きほぐしてくれるような「真実」ではないのだ。
では、何が彼女にとっての「真実」なのだろうか。
物語の最後を飾る亜希の手紙は、あたかもすべての謎を詳らかにし、その答えを与えてくれるかのようだ。調書という公的なテキストに対する、手紙という私的なテキスト。調書という、公的な真実に対する、手紙という私的な真実。
だが果たして、手紙の記述は、本当に「真実」なのだろうか。
現に、亜希が友人の子・穂乃香を台風によって増水した川へと突き落とすそのシーンについては、控え目にしか描写がなされない。この映画の他のさまざまな重要なシーンが“役者の稽古”という形で執拗に反復され、その中で通常の映画的な手法で表現されるよりもなお濃厚な「真実」らしささえ帯びていくなかで、物語の核とも言って良いはずのこの場面はたった一度の台本読み、調書、そして手紙の記述によってのみ言及されるばかりだ。
いわば「真実」は隠されている。しかしこのことはそのまま、この映画のテーマのうちのひとつを、端的に、鮮やかに表しているといえるだろう。
つまり、「真実」はどこまでも掴みがたいということ。そして仮に掴むことができたとしても、言葉では、いや言葉でなくとも、それを「真実」として表現することはとてつもなく難しいということだ。冒頭の調書を取るシーンにおいて、その困難については亜希自身の口からも、あるいは亜希自身のどこか当惑したような身振りによっても語られている。
それでもその「真実」について語ろうとするとき、それは比喩や寓話めいた表現になる。あるいはついには歌として、ただそこにあらわれる。
この映画は、あるひとりの人間が、その内がわで繰り返しみずからにとって大切な、あるいは致命的な記憶を反芻し、時に忘れかけたり、遠くへ追いやろうとしたり、かと思えば迫られたりしながら、「真実」へと昇華させようとする、あるいは「真実」へと漸近とする。そんな心の動きを描きだそうとしているようにもわたしには思われた。
さきほども述べた通り、この映画をもっとも特徴付けるのは、何度となく同じシーンが“役者の稽古”という形のもとで演じられているということだ。それは台本の読み合わせから始まり、段々と立ち稽古へと移り、ついに撮影へと至る……かと思いきや、一度はほとんど本番さながらにまで仕上がったはずのシーンが、再びただの読み合わせの一幕として現れる。あるいはひとつの同じシーンが繰り返し、繰り返し、微妙なニュアンスを変えながらも、執拗なまでに演じ直されつづける。
映画の物語そのものではなく、映画のために稽古をする役者を主として映している作品、でもあるのだろう。何度も同じシーンを撮影していくなかで、いかに役者の演技が変わっていくのか、そこに「役の声」が乗っていくのかを捉えようとしている。だがこのような、映画の撮影そのものに関わるようなテーマについては、わたし自身に映画・演技の知識や経験がまったくと言って良いほど無いため、語ることができない。
しかし、それでもこの映画をわたしは面白く見ることができた。それはこの映画におけるシーンの反復が、わたしには記憶そのものの有り様をよく表しているように思われたからだ。
よりシンプルに言ってしまえば、この映画における反復の体験は、わたし自身が自らの記憶を反芻しているときの体感に、よく似ている。
ある印象的な出来事を潜り抜けたそのあとしばらく、その瞬間の記憶がことあるごとに思い出されてしまうということは、多くの人々にとって共通する体験ではないかと思う。辛かったり、悲しかったりする記憶のこともあれば、良い記憶のこともある。その両方が、綯い交ぜになっていることもある。
それはいつもの道を歩いているとき、顔を洗っているとき、ふと料理の手を止めたその刹那にもはたと蘇る。まざまざと目の前に、重みや、色や、感情そのものを伴って、それこそ映画のワンシーンのように立ち現れることもあれば、その場で交わされた言葉ばかりが端切れのように、いまだ感情の乗らないままに読みあげられただけの台詞のように、遠いものとして引き出されることもある。
そしてたとえ同じ瞬間の記憶であっても、そのときどきによって思い起こされ方もまたさまざまだろう。痛みをともなっていたはずの記憶を、いつしか和やかに眺めていることもある。喜ばしさをともなっていたはずの記憶から、色があせてゆくこともある。あるいはその反芻をしていくうちに、同じ記憶が、より強い熱や情念を帯びてゆくこともある。
もちろん、なかには同じ強度の感情で反芻せざるをえない記憶もあるだろう。けれどもトラウマ的な記憶を例外とすれば、それもまったく同じようなやり方で思い返されるということはきっとないだろう。
いわば記憶の想起とは、それ自体がわたしたち自身の内がわにおける上演であり、上映なのだ。わたしたちは、それが「真実」だと無条件に信じている。というよりも、そのように信じていなければ、正気で生きていくことも難しくなってしまうだろう。けれどもその記憶もまた、実のところは上演のごと、上映のごと、微妙に色調やニュアンスを変えている。意識的な操作であれ、無意識的な歪曲であれ、その点においては、「真実」であるはずの記憶もまた、いくばくかはフィクショナルなものにしかなりえないと言えよう。そしてそこに本当にあったはずの匂いや、温度や、景色は、あっけないほどに遠のいていく。
それでも、わたしたちはそこに「真実」を探し出さざるをえない。それらの記憶を「真実」とすることができなければ、わたし、という自我すらあいまいなものとなるのであり、そのあとに底なしの虚無と狂気ばかりが待ち受ける。
この映画において繰りかえし繰りかえし演じられる数々のシーンは、いずれもそのような、記憶そのもののような手触りを持っているように思われる。
そしてこの記憶、という切り口から『王国(あるいはその家について)』という作品を捉えるとき、この映画に置かれたさまざまのカットや描写、そのほとんどすべてを、亜希の内面そのものの比喩として読み解いてみても、それなりに筋が通るのではないだろうか。亜希がみずからの記憶を反芻しながら、自分自身の「真実」へと至ろうとする、その時間そのものを表した映画だと捉えることも、可能なのではないだろうか。
たとえば、最も多く反復されるシーンのひとつである、「グロッケン叩きのマッキー」に纏わる思い出話のカットは、亜希・野土香・直人という三人の関係性を象徴しており、その瞬間のことを亜希が反芻しつづけていた、という解釈はありうるだろう。
この出来事のうちには、亜希の野土香との関係に纏わる喜びと、痛みとが凝集されている。この場面において、まず亜希は野土香のとの二人きりの思い出、いわば王国の領域へと潜りこむ。そこには亜希にとって、何よりも代えがたい慕わしさや、嬉しさがあり、しかしその王国は野土香の夫としての直人が介入することでたちまちに崩れ、亜希はそのとき、あからさまに動揺を露にする。代わりに立ちあらわれた、野土香と直人、そしてその中心たる穂乃香の領域に、亜希は立ち入ることができない。最後には取り残された亜希と、そのどこか傷ついたような表情が描きだされる。
この映画の最大の事件……穂乃香を川へと突き落とした、その以前において、あるいは以降において、この記憶を亜希がみずからの内側にある「真実」として、あるいは自分でも掴みかねている「真実」を探り出すための過程において繰り返し思い起こしていたのではないだろうか。
もちろん、映画のうちには、幾らかは亜希が介在しないであろう出来事の台詞も挿入される。しかし、この映画の大本の台本には野土香の行動の実情を始め、より多くの出来事が記されていたという。されど撮影に際しては、数々のシーンが削ぎ落された。そうして残された、シーン名を読み上げたきり、演者が一言も発しない、数々の場面。そこにも「映画」という物語を構築するためには必要な、さまざまな出来事がきっと含まれていた。けれどもそれは空白になった。なぜなら、それらの時間は亜希の「真実」にとっては、大きな意味を持たないからだ。
その末に唯一、映画らしいものとして撮られるに至った直人との口論のシーンは、亜希にとってみずからの内に抱えきれない、反芻しうる記憶の外へと溢れだそうとする、トラウマ的な側面を持っていた、とも考えられる。
そしてこの作品において致命的な、殺人事件のその瞬間のシーンは、未だ亜希にとっても反芻しきれていない、「真実」としてあらわれていない記憶……あるいは実のところ亜希の「真実」においては、大きな意味を持ち得ていない記憶、でもあるのかもしれない。
いずれにせよ、亜希にとっての「真実」はついに観客の前には明らかにはならない。あるいは明らかになっているように見えたとしても、それが亜希にとっての「真実」であるかはついに誰にも分からない。なぜならこのような「真実」は結局のところ、ひとりの人間の内がわにしか存在しないからだ。それはあるひとりの人間の自己や心を、意識上において、あるいは無意識下においてからも支える記憶や、印象や、風景のことであり、自分自身の非言語的・非時間的な領域にまで根を張りめぐらせているがゆえに、言葉にすることもまた、本質的に難しいものだ。
ただその記憶や「真実」との葛藤の道のりの結果として、調書、あるいは手紙というテキストがまるで痕跡や、あるいは試みのように残される。それは亜希にとっての「真実」からは、すでに外れてしまっているのかもしれない。けれどもそのような歪曲や、欠落や、操作を抜きにして、「真実」そのものを語るということは、ついにできない。それは「真実」であるはずの記憶自体が、常に幾ばくかはフィクショナルなものだからでもあるし、言葉そのものが「真実」をそのままに取り出すこともまたできないからだ。
それでも、それらの言葉は語られなければならない。でなければ亜希という人間を、ないしはその罪を、社会の内がわへと位置づけることはできない。あるいは、野土香に対して亜希が「真実」を伝えようとするその試みもまた、言葉によって為されるものだ。言葉とは絶えず致命的な切断をその本質に孕みながら、なおも他者同士のあいだに架けられようとする橋でもまたある。
『王国(あるいはその家について)』という作品は、総じてそのような「真実」の捉えがたさと、それでもなおそこへと肉薄しようとする試みを、その全体の構成においても、また物語内のモチーフによっても、意識的に描きだしている。台風の日に、亜希と野土香が見出した二人だけの「台風の日に椅子とシーツで作った王国」の有り様は、まさにそれだ。けして二人以外には分かりえず、またとうの二人にとっても、それが何であったのかは本当の意味では掴みかねているような、「真実」の時間だった。
その「王国」を呼びよせるためのあいことばが、言葉というそのものではなく、歌という非言語を含んだ表現であることもまた、象徴的だ。
「真実」は言葉ではどこまでもとらえがたい。「真実」としてあらわれるはずのみずからの記憶さえ、その手ざわりは移ろっていく。
それでもそれを、求めつづけていくこと。それは表現するという行為の最も深い部分に横たわる過程であり、あるいは人間がある未来や、理想や、希望を見出し、生き抜こうとする行為とも重なりあう。その果てしもない過程を観るもののうちにも焼きつけ、あるいは思い起こさせていく。
『王国(あるいはその家について)』は、わたしにとってはそのような、致命的な時間の体験だった。