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心のパンツは脱がないで

エッセイを書く人が、書けば書くほど自分の人生が擦り切れていく、と言うのを少し前に見かけて、ギュッと心が苦しくなりつつこう思った。
「無理して脱がないで。脱がないで書いていいんです。」

今日は、ちょっと抽象的なお話。どこまで自分をさらけ出すかについて。


エッセイ(日本において随筆)は自由だ。自分の心に浮かんだことを筆のおもむくまま書けばよい。思想、評論、体験記、日記。なんだって書いてよい。
その制約のなさが裏目に出て、書き手は悩む。私のこと、どこまで書いたらいいんだろう……?


どれだけ自分をさらけ出すか。それはビーチで、どんな水着を着るか、と同義だ。(男性用の水着はバリエーションが少ないため、例え話として成り立ちにくくてすみません。とりいそぎ女性用水着を着てください。せっかくなのでうんと可愛いのを選んで。)

着る水着は、肌面積の多いビキニでもいいし、顔と手足の先しか露出しないブルキニ(イスラム教徒の女性用水着)だっていい。それは個人の好みである。裸をご希望ならば、それもありだ。

しかしながら、水着は強制されて着るものではない。肌の露出を控えたいのにビキニを着なければならないなんて苦痛でしかない。逆に、露出しすぎだから少し隠した方がいいんじゃない?なんて心配そうに進言するのも無粋である。みんな好きで選んでいるのだ。ビーチで楽しむために、お気に入りの格好で遊んでいる。

そして水着は他人が剥ぎ取る、または脱ぐように強制していいものではない。私生活をそれなりにさらけ出してエッセイを書く私は、この例え話の中ではビキニ派になるが、絶対に水着は脱がない。金を積まれても特にパンツは絶対に脱がない。(真剣な話の途中で間抜けな感じもするけれど、水着の下の呼び方って「パンツ」でいいのかな。30代も半ばなのによくわからない。)

私にも、誰にも見せたくないものがある。救われることがない深い悲しみ、泥々とした薄暗い気持ち、死ぬまで独り占めしたい喜びの記憶。絶対にnoteに書かない、noteじゃなくても絶対に書かない、人に言うまい、と決めているものがある。
それらに関しては、書かなくていいのだ。口をわる必要はない。
私は、書きたいものだけを書く。

マイノリティに対してからかうように質問をする人や、被害者に対して取材攻勢をかけるマスコミが不快なのは、人が脱がないと決めている水着を無理やり脱がそうとするからだ。
脱ぎたくない水着を脱がされてしまったら、それはもう傷つく。


だから、エッセイを書くにあたり、パンツを脱いでまで書かないでほしい、と私は思うのです。気持ちを吐き出して楽になるならいいけれど、傷ついてエッセイをやめてしまうぐらいなら無理しないで。
露出度の高いビキニの私は、喜びも悲しみも憎しみも、書けるものはあけすけに書くつもり。でもパンツは脱がない。パンツさえ脱がなければ何だって書く。

書くことと、書かないこと、線引きに迷っている人は一度、パンツをしっかりはいてみてはいかがでしょうか。
たくさんのエッセイストと、一緒に長く書きつづけたいから。

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マリナ油森
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