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何でもできる人なんていない。一つできればそれでいい。

こんにちは。
今週は何かと忙しくて更新を怠っていた僕です。(怠惰)

今日の関東はもっぱら雨なわけですけど、雨の日ってやっぱり居心地がいいですね。外に出るのは億劫だけど、家の中で雨の音を聞くのはとても心地いいです。世界が少しだけ狭まった気分になります。いつもより空気の距離が近い感じ。

それはともかく。

最近思うんですよね。全てを求めてはいけない、ということを。
一見これは"諦め"のニュアンスに思われるかもしれませんが、多分そうじゃない。もとより何でもできちゃう人なんていないのです。

例えば、人気歌手のライブ会場には何万という人が駆けつけますね。その歌に陶酔するファンの中には"こんな風に歌えたらな、"と思う人もいるでしょう。

大谷翔平。言わずと知れた野球のスターですが、多くの野球ファンたちは"こんな風にプレーできたらな、"と思うでしょう。

インターネット社会になり、僕たちは多くの"スター"を目にするようになりました。顔がいい人、絵が上手い人、話が面白い人、ゲームが上手な人。彼らには多くの"フォロワー"がつくようになりました。文字通り、フォロワーとはスターに付き従う人たちです。

これまでは、スターといえばスポーツなりアイドルなりの"テレビの中で出会う"人たちだったわけですが、その場がネットとなり、まずそのようなスター、"才能の象徴"となる対象が増えました。それに加え、フォロワーという仕組みによって、スターとスターじゃない人、という対立がより際立つようになりました。言い換えればそれは、「持つ者と持たざる者」です。

最近ネットではみんなが一生懸命「何者かになりたがっている」気がします。例えば、顔がいい人はたくさんのフォロワーがいるから、と加工・整形して自分も"そっち側"に回ろうと懸命です。人より目立ってたくさんの反響が欲しいから、と犯罪行為や自傷行為に及ぶ人だっています。

ネット社会によってスターが乱立するような時代になり、あたかも世界は「持つ者」の方が多数派で、「持たざる者」の方が少数派であると錯覚しやすい。そして、多くの若者は自分が「持たざる者」であることに絶望します。

ただ、スター、すなわち「持つ者」であっても、人よりできることの方が少なくて、その下には多くのできないことがあるのではないか。と。大谷翔平だって野球こそ世界レベルにあれど、歌手や映画俳優、はたまた画家として成功するわけじゃないでしょう。逆に、自分を「持たざる者」だと卑下・絶望する人にも、どこかの分野では「持つ者」に回ることだってあるでしょう。それがスポーツやエンタメのようなわかりやすい分野じゃなくとも。

最近はこのことに"気づかせないように"してしまう歪んだ世界になっている気がします。あたかも自分は何もできないちっぽけな存在だと思わせるような世界。

別に整形を否定するつもりもありませんし、むしろそれで理想を手に入れられるならばいいと思いますが、「スターとフォロワー」、「持つ者と持たざる者」という対立に必要以上に苦しみ、自分の存在を否定する必要はないよね、と思います。そもそも、そのような対立は錯覚なのですから。

それよりも、自分が「持つ者」となれる世界を見つける方が、ずっと冒険的で楽しいんじゃないかな、と。

これは人によって様々な考えがあると思いますが、少しでも「ネット社会が産んだ虚像」に苦しむ人が減ればなと思う今日この頃。



お腹減ったのでそろそろお昼にします。(朝食べてない)


今日も最後まで読んでくださりありがとうございました。
それではまた👋


金欠大学生の食費になります()