【自閉症の息子】看病をする自分へ贈る、眠れない夜
子供が熱を出した。私は高温を弾き出した体温計を床に放り投げ、震える膝で立ち上がり、うわずる声で旦那に言った。「布団…、リビングにこの子のベッド持ってきて!」
一瞬の間に今日一日の、いやここ3日ぐらいの息子との行動について激しく後悔した。あの時鼻水が出ていたのに外出してしまった。あの時人混みの中に息子を連れて行ってしまった。今日の午前中なんて寒い風が吹きさらす中自転車の後ろに乗せて外出してしまったじゃないか。
あの時からもしかして具合が悪かった?
遡ればあの日に感染したんじゃ?
ずっとしんどいのを我慢してた?もしかしてずっと辛かったんじゃ?
自分を責める言葉が頭の中をこだました。なんで気づかなかったんだろう。ちょっと変かな?と思った時点で、体温計を取って測る手間をあの時なぜ、なぜ、なぜ、なぜ惜しんだのだろう。
私の息子は自閉症である。知的もあるのであまり会話ができない。それゆえにお腹痛いとか喉が痛いとかも自分で言えない。全てがこちらの推測。暑いのか寒いのか痛いのか苦しいのか。察するしかない。想像力を逞しく働かせるしかない。そんな赤ちゃんに対するような育児や看病がもう5年も6年も続いている。なので私はいつも、息子の高熱に怯えている。
実母も旦那も、私がしっかりしろと言う。
「泣くんじゃないよ、あんたがしっかりしなさいよ」
「ゆっくり寝かせるしかないよ。そんなにやたら色々やろうとするなよ」
でもつらいものは辛いのだ。母は強しだなんて誰が言ったのか。息子が熱でウンウン言ってる横でみっともなくハラハラアセアセしているのは世の中で私だけだと言うのか。世の中、なんだ母性があればそんなものは乗り越えられるとでも言いたげじゃないか。生憎、そんな母性は永遠に育ちそうにない。誰か私を強くしてくれよ。なんなら息子の高熱の回を追うごとに全く慣れることもなく、私のハラハラ具合は悪化している。
障害児、それも知的がある息子。きっとこの先、私の育児は普通より長く続くだろう。おそらく息子が成人したとしても自立できるのか、それは分からない。小学校5年生の甥はもう自分の部屋で一人静かに高熱の風邪を耐えるらしい。なんだよそれ。もう大人じゃん。(私は大人だが高熱には耐えられないし、何が不快か苦しいかを散々言うし、元気な旦那を恨みがましく思ったりするが)
つまりこの、単なる風邪の息子への心配が、大いなる不安になってしまう理由。それこそが、他人の体調に自分の情緒が全て持っていかれ、時に自分もお腹を壊したり、泣いたり、苦しんだりするこの育児が、途方もなく長くこの先も続くのではないかという、漠然とした、でも莫大な不安、だ。
障害児育児をしていると自然と医療ケア児の親御さんの話や情報が耳に入りやすい。支援校では棟は違うが医ケアの子も通ってきているし、福祉の情報を探すと必ず難病のお子さんの例などが目に入る。自閉症も場合によっては医療ケアが必要なこともあるので、息子や私に必要な情報として積極的に読んだり見たりする。
『もうダメかもしれないと思いながら救急車を呼んだことが何回もある』
そういった一文を見るたび、冷水を頭からかぶせられたかのように、震え上がりそうな気持ちになる。このお母さんは文字通り死と隣り合わせの子供を抱いて、どんな気持ちで救急車を待ったのか。本人も親も非常に辛いであろう長い入院生活を、その後どうやって前向きに過ごせたのか。
そんな逞しいお母さん達と比べて、お前はたった数日徹夜して看病したぐらいで。息子がかわいそうで辛い苦しい動悸で胸が痛いなどと。私は自分を責める。なんて大袈裟な。なんて堪え性のない。心の弱い奴だ。母親失格だ。そもそもそんな弱々しいメンタルで、母親になんて向いてなかったんじゃないか?自問自答どころか、ただただ自分を責め、貶める。
そうだな、私はつまるところ「母親に向いてなかったんじゃないか」という思いがずっと消えないのだ。あれよあれよと流されるままに障害児育児の世界に足を踏み入れ、まるで定型児よりも辛い育児をこなしている母親みたいなツラをしておいてその実、息子の乱高下する熱に一喜一憂しては胃を壊したりお腹を壊したりする情けないヤツなのだ。息子の将来と自分の将来を悲観して、勝手にしんどくなっている自分勝手な人間なのだ。倦みきった頭でぐるぐると、同じことを手を替え品を替え思考してはお得意のペシミズムに浸かっているだけの、ただの弱い人間でしかないのだ。
解熱剤で熱が下がった息子が、ふと布団から顔を出した。高熱の間はこちらの顔も見てくれないのだ。少し良くなったのだろうか。高熱でも1度下がればだいぶ楽になると聞く。熱のせいで二重になった目がウルウルとこちらを見る。人間の屑みたいな私でも君はお母さんと思ってくれるだろうか。ジュースを飲ませ、ふとんをかぶせる。こんなお母さんでごめんねと陳腐なセリフまで頭に浮かぶじゃないか。
自閉症の息子は私をママ、とかお母さん、とは呼ばない。お母さんと思っているかどうかも分からない。お母さんという概念も知らないだろう。障害児育児における綺麗事や純粋神話みたいなものは、リアルな育児の中で消し飛んでいく。
私をお母さんと思っているかどうかわからない息子の、今苦しいのか辛いのかわからない看病。手探りでしかない育児──誰かと比べては落ち込むだけの、そのくせ正解もなければ何が成功も分からない育児。そこの世界に放り出されて、右往左往、泣きながら歩いているだけの。息子のあれこれになにくそと立ち向かう強さもない、頑張って何かを成し遂げようとする根性もない、ただただ目の前のかわいい人間が苦しんでいるのが辛い、ただそれだけの、まるきり子供のままの自分。
それが、眠れない夜の自分。
息子が高熱を出した夜の、徹夜をして看病している時の、自分だ。
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