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このパズルを額縁に飾る日

僕はパズルが苦手だ。
いわゆる狭く深くな人間関係を好むタイプだ。
と言っても僕はそんな綺麗なもんではなく、深い関係といえるほどの友達はいない気がする。
だからといって、人間関係を広くしようとも思わないし、広げようにも広げられない。
きっとそういうところからパズルへの苦手意識があるのだと思う。

道を歩み、ピースを拾う

 先日、僕の知っているYouTuberが亡くなった。特別ファンでもなく、観た動画の数も二桁も行っていないと思う。
 家族でもなく、親戚でもなく、親友でもなく、友人でもなく、まして知り合いでもない、一方的に名前を知っているYouTuberが亡くなったのだが、何かが欠けるような違和感があったのだ。やっぱり名前を聞いたことがあり、多くはないが動画で何度か観てきた人だったので多少なりとも悲しく、寂しく感じることはあるだろう。しかし、それとはまた違う違和感、自分の中の何かが欠けるような感覚に陥ったのだ。
 パズルのピースが欠けたような。

 昔、僕が小学生くらいの時期のことだ。
 失礼ながら詳しく覚えていないのだが、たしか僕のひいおばあちゃんに当たる人がいたのだが、彼女は僕の人生で知っているたった一人の自分から死を求めた人だった。彼女の父母、夫などはもうこの世におらず、自分も早く後を追いかけたいと言っていた。今の自分には何となく理解できるが、死ぬことに恐怖心しかない10代前半の自分には衝撃的だったことを今でもよく覚えている。

 その後も何度か会いに行ったのだが、僕のことをいまいち誰だかわかっていないようだった。ほかの親戚が彼女に話しかけている内容を聞く限りでは、僕のことを認知していた時期があったようにも感じられたが、そのころには僕のことを忘れているようだった。

 人間は人と出会い、ピースを拾う。そしてその人がこの世を去った時、そのピース落とし、失くしてしまう。そしてまた出会い、ピースを自分のパネルに乗せていく。その時に合った形、その時にあった場所に乗せていく。一回乗せたピースが思ってた形と異なっていたり、間違えた場所に乗せてしまっていたら、距離感・接し方を変えたり、時には縁を切ることもある。そうやって試行錯誤してパズルを完成しようと、努力している。
 しかし、「会うは別れの始め」。完成させようと努力していたパズルは、年を取るとともに崩れ落ち、多くのピースを失ってしまうかもしれない。その結果、自分のパネルに空きを作り、この世では見つからない大切なピースを探しに行くのかもしれない。
 成長と共に完成させようと努力して集めてきても、失ってしまうかもしれない。しかし、現世で自分に合うピースを見つけなければ、いつまでもそのパズルは完成できないのではないか?

人生を道で表すのであれば人間関係はパズルといったとこだろうか。
フレーム以上に広げようとしたり、自分の求めている形をはめようとしても苦しいだけだ。
でも、死ぬときにこれでよかったと。
三途の川を渡った後、きれいに完成したパズルを額縁に飾れるよう人間は努力しているのかもしれない。

僕はパズルが苦手だ。
みんなは得意ですか?
 

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