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私とラジオのおつきあい 第3回

第3回目は、前回の最後に少し書いた通り、私の人生で一番大きな出来事と、それによるラジオとのお付き合いのちょっとした変化について書こうと思う。時期的には1979年から1981年までのお話。

転居

1979年4月10日。私は生まれ育った東京から引っ越すため、アメリカのテキサス州ヒューストンというところに向かった。父の仕事の都合での転居である。父は先に単身赴任で渡米しており、私が小学校を卒業したタイミングで家族との生活を望んでいたようだ。

ちょうど小学校の同級生たちが中学校に入学するのを見届けたあとの出発。皆と同じ学校に行けない寂しさと、新しい出会いへの期待、そして言葉が通じないことへの不安が入り混じっていた。

アメリカでの暮らしについては本稿では省略する(いつか別の機会で書きたい)として、アメリカはラジオ天国。カーラジオのダイヤルをちょっと動かすだけで別の放送局が聴けるほど、ヒューストンのラジオ局は多くてびっくりした。当時の東京では、AMはNHK第一・第二放送、FEN、TBSラジオ、文化放送、ニッポン放送、ラジオ関東の7局、FMはNHK-FMとFM東京の2局だけだったが、ヒューストンではAM、FMそれぞれ20~30局くらいずつはあったのではないかと思う。ほとんどがジャンル分けされた音楽局で、それ以外にはトーク番組の局や、場所柄スペイン語の放送も何局かあり、スペイン語の放送では陽気なメキシコ音楽が四六時中流れていた。

アメリカでラジオを聴くにあたり、ラジオの入手が必要となった。日本で使っていたナショナルのRF-508もソニーのスカイセンサー5600もアメリカには持ってきていない。アメリカではFMの周波数帯が日本と異なるため、持ってきてもFMは聴ける放送局がないと聞いていたからだ。

そこで私は考えた。私の誕生日は5月。親にねだるか…。

ということで、親に誕生日にBCLラジオを買って欲しいとねだった。

親も、慣れない土地に来てかわいそうと思ったからかも知れないが、あっさりとOKしてくれた。そして忘れもしない、誕生日を少し過ぎた1979年5月20日の日曜日、I-10(日本語に訳すと「州間高速道路10号線」というのだろうか)とジェスナー・ロードのそばにあったターゲットという全国チェーンの小売店で買ってもらったのである。

それが、パナソニックのRF-2200、日本で言うところのナショナルクーガー2200である。

Panasonic RF-2200 
(ナショナルクーガー2200)

たまたま親の都合でアメリカに引っ越したことが引き金となり、中学1年生にしてようやく「しっかり使えるBCLラジオ」を手にすることができたのだ。
英語でのコミュニケーションがなかなか取れず、周りに友達がまだ出来ない私にとって唯一の友、である。

余談だが、当然のことながらこのクーガー2200は米国仕様。フロントパネルにあるNationalのロゴは米国のブランド名であるPanasonicに変更され、FMの周波数帯も88-108MHzと米国仕様。後面のパネルや銘板にも日本語は一切書かれていない。なかなかの貴重品ではないかと思うのだが、詳しい方、いかがだろうか?

アメリカでのラジオ生活

話をもとに戻す。私はヒューストンという土地柄もあるのか、カントリー・ミュージックに夢中になり、平日学校から帰ってきてからは、当時カントリー・ミュージックだけを24時間流していたKIKK-FM (95.7MHz) を部屋でずっと流しながら英語の勉強をしたり本を読んだりしていた。

週末、土曜日の午前中は日本人補習校に通っていたので、私は免許を取りたての兄に送り迎えをしてもらっていたが、兄はカントリーのことを「田舎者の音楽」と言ってバカにしており、ロック好きだったため、ロックなどヒット曲ばかり流していたKRBE-FM (104.1MHz) をカーラジオで流しながら登下校していた。たまに父が送り迎えしてくれるときもあったが、父は兄の聴く音楽がうるさいといつも言っていたこともあり、KIKK-FMをBGMにしてくれていた。

短波放送

もちろん短波放送も聞いていた。
一番聞いていたのは、ラジオジャパン (NHKの国際放送) と、台湾の「自由中国の声」の日本語放送である。

当時はインターネットなどというものは当然なかったため、ラジオジャパンで放送されるニュースやヒット曲は、数少ない日本の情報源であった。また、ご存知の方も多いと思うが、大晦日には紅白歌合戦の生中継も放送された。短波特有のフェージングの合間から聴こえてくる日本の歌。知っている曲はそれほどなかったが、歌手の歌声に興奮したものだった。

自由中国の声は、本来日本に向けた日本語放送なのだが、送信アンテナの指向性が合ったのか、容易に受信することが出来た。ラジオジャパンよりも鮮明に聴くことが出来たのである。話題は当然のことながら台湾のことばかりなので、日本の情報源とはならなかったが、台湾目線で見た日本のことが分かったし、何と言っても日本語に飢えていたので、本当に楽しみだった。手紙も読んでくれた。ラジオジャパンと自由中国の声のベリカードはたくさん持っている。

その他、モスクワ放送や北京放送、エクアドルのアンデスの声 (HCJB) は比較的良好に受信ができていた。だんだんと英語が分かるようになってきてからは、イギリスのBBC、オランダのラジオ・ネザーランド、南アフリカのラジオRSAと言った局を受信し、受信報告書を送ったりしていた。

遠距離中波放送の受信

前半で書いたように、アメリカはラジオ天国でありヒューストン市内だけでもたくさんのラジオ局が存在しているので、さすがに遠距離受信は難しいだろうと思っていた。

そもそも、どこにどういう局があるのかという情報がまったくない。更に、番組は音楽をずっとかけ続ける放送局がほとんど。つまり、どこのどういう局なのかを判別する手掛かりは、ディスクジョッキーが時々コールする局名(コールサイン)とCMの中身、くらいしかないのである。
私は自宅から歩いて20分ほどの図書館に行き、関連する図書がないか1週間ほどかけて調べたものの手掛かりはなく、なにか良い方法がないか思案する日が続いた。

とある日、3連休になるから家族でドライブにでも行こうということになり、行きたい場所を探して調べるようにと家族に言われ、私は書棚にあったモービルのトラベルガイドを何冊か手にした。
モービル・トラベルガイドは、当時アメリカでの石油元売りであったモービルが発行していたガイド本で、都市ごとに面積や人口、観光地やホテルなどの情報が簡潔にまとめられていた、比較的小さな都市までカバーされた電話帳サイズの本であった。国内の地域ごとに分冊になっていて、我が家ではアメリカの南部と中西部あたりのガイドだけがあった。

モービルトラベルガイド

この資料を見ながら、テキサス州州都のオースティンとか、1836年の「アラモの戦い」の舞台としても知られているサンアントニオのことを調べていた私。ふとガイドの中に、それぞれの都市にあるラジオ局のコールサインと周波数が書かれた欄があることを発見した。

私の深い疑問が一気に氷解した瞬間である。

それ以降、私は他の地域のトラベルガイドも手元に置き、ノートに都市名とコールサイン、周波数を毎日書き留めていった。それが結果的に役にたったのかと言われると、実はそうでもないのだが、情報に飢えていた私としては手の疲れなど気にならないほど書き続けていった。

そうこうしているうちに、私の英語スキルも少しずつ上がって来て、ラジオで何を言っているのかがだんだん分かるようになってきたので、地元の放送局ではなく、あえて遠くの放送局の受信にチャレンジし始めた。

今でも手元にベリカードやラジオ局からのはがきが残っている。
ナッシュビルのWSM(昔からのカントリーファンにはよく知られた放送局)やシカゴで最も古いラジオ局の一つであったWMAQ(ラテ局であったが2000年にラジオ放送を終了)。ヒューストンからシカゴまでは1500kmほどあるのだが、今にして思えばよく受信できたものだと驚く。

アメリカでの生活は約2年半で、1981年に父の駐在が解け、帰国することになり、私も東京に帰国することになった。


私とラジオのお付き合いはまだまだ続く。少し大人になった私の、日本でのラジオ生活再開は次の回で。

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