神社にご挨拶して思ったこと
この前家を買って引っ越した。
実家を出てからはずっと賃貸に住んでいて、借り物の意識がどこかにありながらだったけど、ようやく根を下ろし”持ち家”に住むことになった。
賃貸よりも部屋数が少しある程度のこじんまりした家で、以前と何が違うかと言えば、壁に穴をあけてよくなったとか、子どもがちょっとキズを作っても大目にみられるようになったとかそんなもののような気もしている。(自分にあまりこだわりがないからだと思う。)
家の近くに神社がある。
今はこのご時世で活動は控えられているけれど、平時には月一回の清掃やお祭りがあるらしくわりと神社を拠点にした活動があるらしい。
引っ越しのばたばたを終えた頃から頻繁に「ああ、ご挨拶に行かなくては…」という思いにかられた。毎日車で横を通るから潜在意識に刷り込まれていたのか、神様が何かお思いになったのか私にはわからないけどそんな気持ちになるようになった。
引っ越しから少し時間は経ってしまったのだけれども、休みの日の早朝に息子を連れてご挨拶に伺った。
鳥居をくぐる前なんとなく重い空気があった。息子もこわいこわいと抱っこでなければ前に進めなかった。神前で手を合わせ頭を下げながらご挨拶が遅れたことに対する謝罪とこの土地に越してきた旨をお伝えした。
帰るときには、なぜか空気が軽くなる感じがした。
私には霊感がないので、やるべきことがやっとできたことに対する安堵からくるものなのか、霊的なものなのかはさっぱりわからない。
けれども、もしそれが神様のようなものからくる空気なのだとすれば、その地に住まうものとして受け入れられたような、そんな感じがした。
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そのような(もしかすると気のせいかもしれない)空気を感じて思うことがあった。
”持ち家”であろうとなかろうと、その土地を借りて住んでいるということだ。お金を出したところでそれは人間の世界の話で、貸主を神様と呼ぶのかどうかはわからないが、土地を借りて住まわせてもらっているのだ。そう感じるようになった。
そうなると、掃除をする意味も変わってくる。(私はずぼらだし掃除が得意ではないのだけれども。)
お借りしているものであるから、ある程度心地の良い空間にして使うのが礼儀のような気がしてくる。
自分の中で掃除をする意味が変わってきたところで、なかなかこのずぼらさは治らないものなのだけれども、わかっていないよりはいいのかもしれない。
きっとその土地に住む人やものたちの空気感がその土地にしみついて、重なっていくのだろう。お返しするときに恥ずかしくないように、気のせいかもしれない感覚を時々は思い出したいと思っている。
できればずぼらさも軽減されますよう…。