【フィールドノート】#03 伊勢③
先日、伊勢に行ってきた(もはや先々月である)。今回はいよいよ、五十鈴川から内宮への参拝(そして、伊勢編は最終回の予定)。
猿田彦神社から五十鈴川へ。
猿田彦神社を後にして、徒歩で内宮へ向かう。
途中、五十鈴川がみえてくる。地図をみると、五十鈴川の流れは伊勢神宮 内宮とは密接な関係にあるように見える。水の流れ、川の流れというのは、いろいろな意味でカミの力を感じるところだからだ。実際、内宮を取り囲むように川が流れていて、境界のように線を引いているようだ。
ここでふと思うのは、外宮は五十鈴川沿岸ではないんだな、ということである。外宮は現在の地形でいうと宮川の方に近く、宮川と勢田川に挟まれる形だ。地図をよくみると、外宮から西北西側には、池がたくさんあり元々は川があったのではないか、もしくは川の流れが多量に注ぐ地域であったのではないかともみえる。
この地形の違いが、祀る神の違いでもあるのかもしれない。などと考えながら、地図をみてあるいてゆく。五十鈴川は何の変哲もないといったらそれまでなのだが、ただ青色を光らせて流れていく。
おはらい町通りはおいしいにおい。
五十鈴川に沿って、内宮まだ続くのはおはらい町通り。店が立ち並び、食べ物の匂いを漂わせる。当然ながら、食いしん坊の心はくすぐられる。人出のにぎわいも、くすぐられポイント。並んでると並びたくなる。ことはないのだけれど、適度な人出は食欲をそそる?そそらない?
みんな大好き赤福さん。お土産だと、日持ちがしない割に量が多くて食べきるのが大変。でも買っちゃう。店先では、お茶と赤福餅二つくらいのセットが食べられる。それくらいがちょうどいい。赤福、美味しいよね。ゆかりとともに名古屋土産の筆頭、実は伊勢なの。
酒屋も沢山あったように記憶している。立ち飲みできる角打のようなお店が立ち並び、地ビールを出していた。初夏で天気も良く汗ばむくらいの気温だったので、一杯飲むかとも思ったけれど、元々つよくはないことと昼間から飲むと輪をかけて酷いことになるので、やめた。酒、というのはやはり神とつながりやすいものである。つながってもよかったのだが。
ともあれ、平日の昼間からたくさんの人が訪れていて、酒やら食べ物やらとにかく売り子さんとお客さんとで賑わいが休日のようであった。休日はどうなってしまうんだろう。神は休むところを知らないということか。そもそも休むとはなんだ、平日とはなんだ、と改めて考えさせられる、そんな光景だった。
内宮、デザインされた神の宮。
いよいよ内宮へ。このフィールドワークの第一の目的は、猿田彦神社の御守りを返納することであった。だから、今回の内宮詣りは、おまけ、寄り道、である。天照大神には大変失礼を承知で(そんなこと微塵も思ってないくせに)こんなことを書いてしまう。
神(カミ)について考えたフィールドワークの途中、そこからの内宮詣りは、なんとも感慨深い。言葉も浮かんでくるし、イメージは膨らむ。有名デザイナーが、「センスは知識からうまれる」と言っているのは、一理ある。一理でしかないとはいえ、そんな感じだった。
デザイナーの話をしたところで、とにかく内宮でまず感じるのは、そのデザインのすごさである。圧倒的である。神を祀るため、いや、もう少し丁寧に言葉を選ぶと、「参拝者に(目に見えない/見える)神を身体的に感じとらせるため」のデザイン。ぼくの少ない寺社仏閣の巡礼経験からして、その極地といっていいかもしれない。感じることに鈍いぼくでさえ、(錯覚かもしれないが)色々なものを感じるのである。もちろん、色々なもの、とは、神(カミ)ではないものも含むであろう。それが神(カミ)なのかは、ぼくには感じとれない。やっぱり、ぼくが鈍感だからだと思う。
そんなことを考えながら、自然であることと、神(カミ)を感じさせることは全く別のはなしだということだと考えていた。伊勢神宮は、自然か不自然かといえば、ぼくからすると不自然だと感じたのである。だって、こんなに緑があって川が流れているのに、砂利のひかれた参道がある。その絵面は自然といえるだろうか。また、参道の真ん中を神が通るので、参拝者は右側通行をしなさいという。これが自然といえるのだろうか。
と、考えながら、急にわからなくなってきた。参道を歩き、砂利の音が聞こえると、ふとそれが自然に感じられる気がしてくるのだ。なんじゃそりゃ、と思われるかもしれないが、そう思ったのだからしょうがない。不自然だと感じるデザインを使ってみると、その行為の結果(なのか過程なのか)を自然だと感じる。これは認知の問題でもあり、また比較論の問題でもあるような気がしてならない。では、自然ー不自然とはなんだろう、という話であるし、自然ー不自然をぼくがどう感じるか、という話であるし。それとは別に、神(カミ)とはなんだろう、神(カミ)をぼくがどう感じるか、という話になるのである。いよいよ、よく分からなくなってきた。
そんな思索を通じて、神はいるのかという話(存在の問い)と、僕たちは神を感じるのかという話(認知の問い)は別物だ、ということに今更ながら気がついたのであった。そして、内宮は、どのように神を感じさせるのかという話(方法の問い)を、1500年くらい前の人たちがとにかく心血を注いで考え、造られたに違いない、と思いながら歴史ロマン風味の、想像力を働かせてみる。ところで、「神は細部に宿る」はどの問いに分類されるのだろう。
みちびかれるように。
そんなこんなで、内宮本殿にもお詣りすることができた。その後、高山での食事の約束もあり、電車の本数も少なかったので、帰り道を急いだ。その帰り道にふと気になるところがあり、立ち寄った。急いでいたので名前もわからない。そして、誰も気に留めず、ひっそりとそこにあった。とても静かな池。
とくにうつくしいと感じるわけでもなく、なんらかの謂れがあるのかはわからない、名所というほどでもなく人が気に留めず、内宮の中では暗く静かな場所にある。でも気になってしまい、とにかく枚数は切った。その後、少しのデジタル現像をもって生まれたのがこの写真である。
こういう何らかの衝動をかきたてる場所を探すためにフィールドワークをしているのか、そもそも、何らかの衝動があるからフィールドワークをしているのか。おそらく、自分は後者により近いだろうと思う。そもそも人間とは、動物とはそういうものであろう。
だからこそ、デザインは必要なのだと思う。人はそこまで敏感になれないし、なる必要もない。ぼくは本当に鈍感であるのだから。何かを感じたい時に感じる場所があればよい。そんな場所なのだ、この内宮は。場所だけでない。おそらく、猿田彦神社の御守りもそういうことなのだろう。みちびかれるように、デザインされている。いや、デザインそのものもみちびかれている。
たぶん。
、、、
ようやく、伊勢編もいったんの完結。投稿に時間が開いてしまうのは仕方がないこと。と思いつつももっと書きとめておきたい気もする。
写真は記録ではないから、記憶をたよりに書く。フィールドノートも記憶の記録であるんだろう。
all photo by tomohiro sato.