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吹奏楽コンクールに全力になってしまったもんだから。
こんにちは。
前回は「吹奏楽部」という存在がどこか心のつかえになっていた時期があったんだよ〜ってお話をしました。
前回の記事で「吹奏楽を題材にした映画やアニメも見れなくて〜」みたいな話を挙げましたが、今回はそのあたりを書きたいと思います。
前回記事のトピックの中心になっていた『吹奏楽コンクール』、実は世間では賛否両論でして事あるごとに話題に上がります。
音楽は楽しんでこその音楽なのに、勝つための音楽って一体どうなんだとか。
SNSでも、このnote内でもよく「吹奏楽コンクールが嫌いだ」なんて言葉を見かけることがあります。
今ならその気持ちも、100%ではないにしろ分かる部分もあります。
楽器を演奏することが楽しくて、人と音を合わせることが楽しくて吹奏楽をやっているのに、やれ金賞がどうだとか、勝ち上がるためにはこの曲じゃダメだとか、そんなことを言われても…と感じる人がいるのは当然のことです。
だけどですね。
私は吹奏楽コンクールにある意味疑問を持つことなく、がむしゃらになっていた高校生でした。
それもやはり環境のおかげで、音楽、吹奏楽の素晴らしさを伝え続けてくれた顧問の先生の元に身を置けて、その環境が自分の性に合っていたからコンクールにポジティブに取り組めたんだと思います。
やはりクオリティの高い演奏のためには厳しい時間もありましたが、あくまでそれはよりよい音楽のための時間であって、できていないからと怒鳴られたりすることもありませんでした。
常に建設的で、愛情深く私たちの音楽を育ててくださいました。
(またこのあたりの話もどこかで)
そんな高校生がいざ部活を引退して外に目を向けてみると、思っていた以上に厳しい世間の声が広がっているんです。
「こんなの音楽じゃない」なんて強い言葉を使う人もいます。
え〜〜!音楽じゃないの!?って。
びっくりですよ。
わずか12分間の演奏のために何ヶ月もの時間と労力を費し磨きをかけて、追求すればするほどその曲の魅力に触れることができて、吹奏楽ってこんな音も出るんだ!って新たな発見もあったりして。
吹奏楽コンクールを通して、音楽っていいなあって本心から感じていたのに「音楽じゃない」「音楽に勝負を持ち込むのは違う」なんて言われた日には。
前回もお話ししたみたいに、高校3年間は部活漬けで世の中を知らない浦島太郎状態、SNSなんて全く触れてこなかったわけで、今思えばその時初めて世間から見た「吹奏楽部」の実情に触れたんだと思います。
(SNSには極端な考え方だったり誇張した表現を使う人が一定数いて、そういった人がどうしたって目立ってしまうというのは踏まえた上で)
竜宮城から帰ってきた浦島太郎は世間の声を知ります。
「金賞取るためにって同調圧力がキツかった」
「そもそもコンクールなんて出たくなかった」
「定期演奏会や文化祭で楽しく演奏するだけでもいいのでは?」
…いや、確かに。
おっしゃる通りで…。
そうなんですよね。
納得してしまう意見がたくさんありました。
別にコンクールに出なくたって吹奏楽はできる。
充分楽しいんです。それは確かです。
自分が一生懸命になっていた「吹奏楽部」と、「吹奏楽部」に対する世間の声の乖離に気付きはじめました。
話は冒頭に戻りまして、吹奏楽部を題材にした映像作品が観れない云々の問題。
吹奏楽部を題材にすると、往々にして「コンクールが全てじゃないよね?」のトピックが取り上げられます。
それを観たときに何が起こるかって「うわ〜…自分『同調圧力』側やったんちゃう?」って自覚が生まれるんです。
画面の中で起こっていることが追体験となって、グサグサと自分の過去の行いを指差してくるんです。
中学は弱小も弱小でしたが、吹奏楽コンクールには出てましたし「コンクール出たいです!」って声を大にして言ってました。
別にコンクール出なくてもいいんじゃない?って言ってた友達もいる中で。
高校はコンクールに出るか否かなんて議論が起こることはまずなかったんですが、次はコンクールのオーディションがあります。
「別に今年(高1時点)はコンクールメンバーなりたいとかないしオーディションに向けて必死こいて練習しなくても…」とか「コンクールは2,3年生が出ればいいんじゃないかな」って言ってる部員に対して、直接言いはしなかったものの「ここでガチになれないなら、じゃあ何のために吹奏楽部入ったんだ?」とは思ってました、正直なところ。
演奏じゃないあれこれにうだうだと時間を使って何がやりたいんだ、そんなことしてる暇あるならスケール練習のひとつでもすりゃいいのに、とか思ってました。
超生意気です。部活動なんだから人間関係の構築も、部活動を運営するために頭を悩ませる時間も必要なのに。
今になって考えれば、「コンクール頑張りたい」って人もいれば「私は出たくない」って人もいていいんだって分かるんです。
でも当時はこんな当たり前のことすら分からなかった、というか想像しようとすらしなかった。
コンクールに向けて頑張るって目標があることっていいことやん、なんでそこに全力になれへんのやろうって思ってました。
これが世間で言われている「コンクール至上主義」なのかもしれません。
今はコンクールに全力だった自分のことも肯定してあげられるし、どっちが正しいなんてないことも分かりますので、吹奏楽部関連の作品を観てもなんてことはないのですが。
だけどやっぱりしばらくは、自分のことしか見えておらず周りを傷つけていたかもしれない自分がすごく恥ずかしかったし、目を背けたい気持ちがどうしてもあったのだと思います。
このようなことも、引退してから吹奏楽部に抵抗を感じていた一因だったんだろうなという話でした。
「コンクール至上主義」に息苦しさを感じている学生さんも現在進行形でいるかもしれない(というかいるだろう)という中で、吹奏楽コンクール、そして吹奏楽部についてどんな言葉を使ってお話しすればいいのか、noteを始めてからずっと考えていました。
あくまでコンクールに全力を注いだあの夏が楽しくて仕方なかった自分に何が分かるのだろう、とか。
でもそうじゃなくて、それらの経験も今自分が音楽を続けている理由のひとつなんだから、その経験を蔑ろにすることはないんだと。
定期演奏会、文化祭など部が一丸となってひとつのプログラムを作り上げて目一杯楽しむ尊さがあるように、吹奏楽コンクールも、音楽じゃないなんてことは決してなくて、音楽表現の場のひとつであると思ってます。
これら全てが、吹奏楽という音楽文化を紡いでいってくれているんだと思います。
目の前のことにがむしゃらだったとも言えるけども、仲間の気持ちに寄り添えなかったとも言えます。
それを自覚したときに目を背けようとした自分や、そのあれこれをこのnoteに書き残すことをビビっていた自分のダサいところも含めて、素直な言葉で書けていますでしょうか。
それともまだ取り繕っていますか…。
まだまだ未熟でそれすらも分かりませんが、これまでにいただいてきた音楽の楽しさを、目一杯体現できる奏者になりたいなと思います。
最後までお読みいただきありがとうございました。