極の世界を行き来する表現者
こんにちわ!久しぶりの熟睡を経て、午前中からずっと活動モードの亀岡です。
今日は昨晩アップされたばかりの、スナック西野第二回ゲスト、蜷川実花さんを向かえた動画からの学びを記したいと思います。
動画は導入10分は無料、続きはメンバーシップ(有料)となっておりますので、導入部分のURLを貼ります。
概要
蜷川実花さんが行っていた写ルンですで撮った写真展の話から、なぜそれを行うのか?やって得られる外的要因と内的要因の話になる。
#自分の経験や得意技を封じた筋トレ
この話から、サムネイルにある「大手に無効化されない差別化」の話に。
簡単にまとめると、
≪新商品、新サービス会議の際に、「差別化要素はどこなの?」と言う議論になりやすいが、「その差別化ってうちしかできない差別化なの?」まで突っ込んで考えることが大事≫
一般的なイメージの蜷川実花=怖い。これを植え付けてるのは作品の怖さと、親(蜷川幸雄)の風評被害。
ここから家庭、写真家、映画監督、母としての顔など蜷川実花の作られ方を紐解いていき、鬼才ではない人間蜷川実花がどんどん垣間見えていく。
ここで母としての蜷川実花が掘り下げられ、狂気を感じる圧倒的な作品を創る中、母親という世界と行き来していることが一番信じられないという話をする。
これが一つ目の極の世界です。
続いて、蜷川実花さんの中で、表現の世界の最高峰は映画なのか?という質問に関して、映画は監督という立場で関わるので、物事を俯瞰で見て、言語化し、それをスタッフに伝えていき表現する。でも写真は言語が要らなくて、自分の身体に結びついて、感情がそのまま表現になる。どちらが最高は無く、どちらの世界も行き来していることで自分の表現方法を満たしている。
ここから、日本の実写映画の現状や、世界での戦い方の話になり、クロージングしていきます。
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感想
全体的な感想としては、とにかく蜷川実花さんのキュートさが伝わる放送でした。ヘルタースケルターくらいしか作品を見たことがなかったですが、いろいろ見てみたいなと思わせる内容だったと思います。
一回目のゲストの幻冬社箕輪さんもそうでしたが、西野さんが好きになる人って、尖った個性を丸めないまま世の中に価値を残すことができた人なんだなあと思いました。「商品」ではなく、「作品」が創れて、それを世に認めさせられる表現者。
とにかく西野さんからの蜷川実花愛がとてもよく伝わり、想像以上に面白い回でこの短い時間で二回見ました。
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学び
自分の行き来する世界の振り幅が大きければ大きいほど、尖ったり、深まったり、温度が出たりして、「表現」がその人だけの形になる。
蜷川実花さんの場合、世間的に鬼才表現者として活動がありますが、プライベートでは、お母さんという顔を持っています。
さらに言うと、表現の手法としても、言語世界で表現される映画と、身体に結びついた感情がそのまま表現になる写真という、対極の二つを行き来していることになります。
そして、蜷川実花の描く世界観はエロスだったり、ホラーだったり、サイケデリックだったり、いわゆる幼い子の母親という世界から最も距離のある表現を行なっています。
何かのジャンルの高みに行くためには、そのジャンルの裏にあるものを知らなければならない。
この平面では描ききれなくなる極の構造を持った蜷川実花さんという存在から、そんな学びを得たと感じています。
日常を知らないと異常を表現することはできないし、親子の愛を知らないと性愛を表現することはできなし、安全を知らないと恐怖は表現できないし、現実を知らないと幻覚を表現することはできない。
また、映画の1シーンごとの意図や意味を言語で表現することには、身体に結びついた感情がそのまま表現される写真を言語化して表現することも含まれているし、映画のワンシーンを切り取った写真が、一つの言語も介すことなく、身体に結びついた感情がそのまま表現されたものとしてたくさんの人に刺さることも多々ある。
母として日常を生きる世界が母屋の天高の高い一階部分、そして二階は表現という非日常の世界の中でも言語と身体という横幅の異常に広い廊下で繋がった二つの部屋がある。一階と二階。そして二階の横と横。この世界を自由に行き来することから生まれるアイディアが蓄積される容積が異常にでかいということが自分だけの表現を創ることができる可能性を高めるのだと自分は解釈しています。
今日もありがとうございました。