良質なコミュニケーションには良質な媒介が必要なのです。
良質なコミュニケーションには良質な媒介が必要だ。
このことの重要性に気づいている人は意外と少ない気がする。
近年、社会的に必要なスキルの1つとして重要視されている「コミュニケーションスキル」であるが、これを適切に育てるには、とにかくなんでもいいから人とコミュニケーションを取る場数を増やせばいい、というものでもない。
例えば、接客のアルバイトなどに取り組むことによって店員と顧客の会話という意味でのコミュニケーションは生まれるだろうが、その多くは既にマニュアル化されたものであり、深い思考はほとんど求められない(批判を覚悟で言えば、深い思考が必要になるような重要な仕事は、アルバイトには任せられない)。
現代社会において求められているコミュニケーションスキルとはどういうものか、と考えると、その要素もたくさんありそうで、決して一概には言えないだろう。
しかし、いずれにしてもそれは単に「会話ができる力」ではなく、少なくとも「相手の意図を、恣意的にではなく、相手の文脈において適切に理解できる力」や、「相手の立場に立って、相手が理解できるような言葉選びで自分の意図を伝える力」などが重要になりそうだ。
こういう力を育むには、単に人間どうしの会話が生まれる環境に身を置くだけでは圧倒的に足りない。深い思考を伴って、お互い丁寧に話ができる環境を用意しなければならない。
これを丁寧に実践しているのが、私の地域でのコミュニティ活動である。
先日のキャンプでは異年齢集団の班を作るが、その中ではある特定の目的に向かって一緒に協働する場面がある。
例えば、美味しい食事をつくるために、班員どうしで協力して炊事作業に取り組む。中学生が班長として司令塔になり、その他の小中学生がそれぞれ炊事の特定の役割を持って仕事をする。その仕事が終わったら班長が次の仕事を任せて、集団での炊事を少しずつ進めていく。
その中で必要になるコミュニケーションは、決してマニュアル化できない高度なコミュニケーションだ。もちろん、料理のレシピがあったりある程度の予測を立てたりはするが、当然想定通りにいかないことが多数起きる。それを集団として乗り越えるためには、深い思考と丁寧なコミュニケーションが必須だ。
こうして特定の目的に向かって一緒に協働して何かに取り組むことそのものが、コミュニケーションの良質な媒介となって、人間集団の結束をつくっていくのだろう。
こうした活動の積み重ねの中で、コミュニケーションの力は身についていくものなのだ。
現代社会においては、特にこうした良質な媒介を用意することの重要性が増していると思う。
意識的にコミュニティを形成し、意識的に集団活動を設計し、意識的にコミュニケーションの力を伸ばす。
そんな教育が必要になるだろうと私は思っている。