新年の「詩」(年賀状アーカイブ2007-2020)
ある時期、ごく私的な年賀状に、新年を題材とする近・現代詩を使わせてもらっていた。(親類などに出す家族名義のものとは別に、個人で出すごく少ない枚数の賀状)
2020年(令和二年)を最後にやめてしまったが、個人的なアーカイブとして、少しばかりの感想(+批評の真似事)を添えてここにあげておくことにした。(住所氏名はマスクしている)
「今年も」が繰り返されたあとの、「決心はにぶるだろう今年も/しかし去年とちがうだろうほんの少し/今年は」が、たまらなく好きな一節。この詩人らしい巧みなリフレイン。
賀状の上部に引用している英文と拙訳は以下のとおり。
「日々を新しくうけとめて/嬉々として私の小径をゆくこと」。これが新年の願い。
賀状の上部に引用している英文と拙訳は以下のとおり。
もしかしたら「新年」とは、いまの自分を肯定するための区切りなのかもしれない。
田村隆一は私のもっとも好きな詩人のひとりで、この詩は、ここにあげた詩の中でもっとも好きな詩。
賀状の写真部分下部に引用されている英文と拙訳は以下のとおり。
賀状の下部に記した簡単な解説(のようなもの)は以下のとおり。
すべてのことが「あたらしく」感じられるのが、新年。そこに幸福を見出すのも、新年。「楽観主義とは意思のもの」である。
賀状の下部のちょっとしたコラム(のようなもの)は以下のとおり。
「1月の空に呼気を放とう」。新年の朝に、窓を開いて呼吸することの初々しさ、瑞々しさ。それは新雪の上に足跡を残すことに似ている。
2011年の東日本大震災をうけての、その翌年の賀状。この詩は、1995年の阪神大震災をうけて書かれた「震災詩」のうちの一篇。詩人は、特別な年の、新しい春をうたった。
賀状下部のキャプションは以下のとおり。なお、安水さんは2022年にお亡くなりになっている。
「新年が冬来るのはいい」。この詩は、光太郎の別の詩『冬が来た』を思い起こさせる。その詩には「冬よ/僕に来い、僕に来い/僕は冬の力、冬は僕の餌食だ」との一節がある。さらにこの詩は私に、スコットランドのバンド、アズテックカメラの『Walk Out To Winter』という曲の一節「Walk out to winter, swear I'll be there. Chill will wake you, high and dry You'll wonder why.」を思い起こさせる。
「一年の計もまた元旦にない」。「未来がかすかにかおるのを/感じるだけだ」。新年に感じる、Let It Be(あるがままに)。
人類の歴史も、人々の暮らしの歩みも、「天体の旅の巡り」。このスケール、パースペクティブが、この詩人の真骨頂。
「風を捉へ たこをあげ」、「地(つち)を蹴り こままはす」。「天地(あめつち)に子らは挑み」。新年の子どもらが遊ぶ姿に励ましをみる、詩人のポエジー。
「宇宙の片隅で 輪になって/たったひとつの 井戸を囲んで」。戦争の絶えない世界での、平和への祈り。
日本の各地の、祝いのことば。声に出して「読む」ことで、新年のよろこびのテンションが爆あがりする。
新年の食卓を囲む喜び。家族だからこそ「新たに出会う」という、初々しい気持ち。
「令和」の由来となった万葉の詩は、初春をうたった詩でもあった。「令和」は英語では「Beautiful Harmony=美しい調和」と表されるとのこと。
(太宰府市HP https://www.city.dazaifu.lg.jp/site/reiwa/11391.html より)
●批評のようなもの
ここまでに、新年を題材とする13編の「近・現代詩」を紹介したが(2020年の万葉集の詩を含めれば14編)、実のところ、「新年」や「正月」を題材にした詩を書いている詩人は、それほど多くはないように思う。
2017年と2019年の賀状に使わせてもらった石垣りんは、やや例外的に「新年の詩」を多く書いているが、それはかつてテレビの新春番組の企画で十年ほどの間、そうした詩を(番組側からの依頼によって)書いてきたからのようだ。(『詩の中の風景』という石垣の編んだアンソロジーの中にそうした記述があった)
「新年」や「正月」とは案外、詩人にとってはそれほどポエジーを感じられないテーマなのかもしれない。「新年のよろこび」とは誰もが感じる「凡庸」な感情だからかもしれない(それゆえに「詩」として表現することが難しい)し、巷にあふれる仰々しい「新年の抱負」やら空々しい「年頭の誓い」やらに詩人たちが辟易していることによる反動かもしれない。(そういえば、谷川俊太郎には『年頭の誓い』というアイロニーに富んだ詩もあった)
そんな中で、ここに紹介した13編は、「賀状」というフォーマット、そのトーナリティに似合う、比較的直截に新年のよろこびを歌っている詩を選んでいる。(逆の言い方をすれば、一般的な「賀状」のトーナリティに合わない詩は、ここでは選んでいない)
普通に言葉にするだけでは陳腐になりがちな「新年のよろこび」を、名だたる詩人たちがどのように「詩」という形で表現しているのか。そうした視点でここにある詩を読んでもらうのも、一興かもしれない。
少しだけ私の思うところを付け加えるならば、こうして、10人強の詩人による、同じ「新年」を題材とするであろう詩を見比べてみると、それぞれの詩人の特徴が際立って見えてくるものだと感じる。
例えば、谷川俊太郎は私が思うに、「どんな詩でも書けてしまう」ような天才型の詩人だが、ここであげた『今年』は、巧みなリフレインと、多様な視点を律動的に提示していくことで、非常に高い、(例えば流行歌とも肩を並べ得るような)ポピュラリティを獲得している。
田村隆一の『新年の手紙』は、賀状に引いているのは全体のごく一部でしかないが、この詩全体では(荒地派らしくと言えばよいのか)田村の透徹した時代認識の下での巨大な「悪」や「正しさの不在」から出発し、さいごに「肯定へ(への意思)」を見せてくれる。私は賀状に「新年とは自分を肯定するための区切り」と書き添えたが、田村の詩が単なる夢想からの、(時に「お花畑」等と揶揄されるような)能天気な楽観ではないことは、念のためここに付記しておきたい。
佐藤春夫は、小説家としても広く知られた人物だが、彼は小説と詩を、明確な意思をもって、書き分けていたようだ。詩業では「秋刀魚の歌」が広く知られていよう。佐藤は「詩人は僕の一部分である。散文家は僕の全部である」といった言葉を残しているらしいが、この『新しき年の始めに』に見られるポエジーは、そんな佐藤の「一部」なのであろう。幼な子の凧揚げや駒廻しにエナジーをみるイノセントを、彼もまた持っていたという事だ。
(了)