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最 近 思 っ た こ と

数週間前、東京から私より大人の映像系の方が来られて議論になったこと。「建築家として、いろんなニーズに応えるために、私自身がいろんな経験をしたいと思う」と私、                        「それは無理だと思う。なぜなら自分は自分だから。」と言われた。   
どんなに、様々な環境に身をおいたとしても、そこで経験、感じたことは結局は主観的なのだということだろう。だから、それには無理があると。

おそらくそういうことだと思う。

最近思ったこと000

学部1年の、”建築計画1”のなかで、ウィトルウィルスの『建築十書』を取り上げられ、建築家に求めるものとして次のように書かれていると学んだ。「そして願わくば、建築家は文章の学を理解し、描画に熟達し、幾何学に精通し、多くの歴史を知り、努めて哲学者に聞き、音楽を理解し、医術に無知ではなく、法律家の所論を知り、星学あるいは天空理論の知識をもちたいものである」De Architectura、建築十書 一説

現状、この論の足元にも及んでいない私ではある、、、

この論は紀元前に書かれ、今から2000年も前のものであるから、その取り巻く環境も大きくは違うとは思うが、                  それでも病院を考えるとき、父が入院した時の経験が役に立つこともある。保育園を考える時、子育てをしている人の”設計の強み”も感じるわけで、

住宅ならば、当然自分の生活体験が基盤になるので、私が実際体験としての【 〜19年 までのサラリーしながらの都市型マンションでの生活体験  と【20年〜 からの田舎の古民家での暮らしのあり様         とは、やはり造られるもの、求められるものも違うのだと思う。

つまりは、より多くの経験、知見を持ち合わせるべきだと言うこと。

最近思ったこと001

最近、『絵を描く』ということを生活の主軸に置いている仲間ができた。 彼女は、自分のライフワークの中でこうだとか、そういうことは言わない。私の視点からだと、「絵を描くことと生活をどう両立する?」「絵を描くことでどう収入に結びつける?」つまりは生活の中でどのような位置付けにあるのか?みたいなことに気になり、それを知りたくなるのだが、     「描きたいから描く」と言う。「ああ、そう言うものなのか」と思った。


冒頭の論で言うならば、たとえ "ある環境" に身を置き、すこし経験したとしても、それにどっぷり浸かるわけでも、より深いところまで極めるわけでもないなら、それは結局は体験活動の域を脱しない、つまり私はそれの本質を掴むことができない。絵を描く彼女の様に、芸術行為を行う。と言うわけにはいかないし、そう言うマインドにはなり得ない。と思う。     私は、あくまでも建築家のエゴとして、他者の経験や生活感を評価し、想像する。それって、大人の彼が言う「それは無理だと思う。なぜなら自分は自分だから。」が意味することだろう。

『気候カジノ』という本を今読んでいる。地球温暖化問題は今や世界を巻き込む問題だが、これを科学と経済学から見ようという試みだ。

書いてあること、                          例えば、科学的根拠に基づいて“地球温暖化”を論ずることはできるが、それでは経済がYESとは言わない。                    経済の舞台で“地球温暖化”を論ずるならば、成長率との共存ができず、問題を過小評価する。                          では、具体的対策をどちらかが提示した場合、末端の消費者にとってはどうか。例えば、環境の良いものを推奨し、環境に悪いものに税を掛けます。と言ったとして、皆がわざわざコストをかけ電気自動車に変えるだろうか。おそらく変わらない。

”地球温暖化”を取り巻く環境は、各々の立場(見方=ベクトル)において大きく異なるわけだ。それら1つ1つを一度肯定し配慮しなければ、最適解は導き出せない。これは他でも当てはまると思う。



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最後、

厄介なことに、こう言う話を少しし始めると、“グローバリズム” “SDGs” “エシカル” “多様化”etc... と言う言葉が近づいてくる。(実際は、意図的に結びつけて話すこともあるわけで…)                   「つまりは他者の声を聞いて、多様性を受け入れればいいと言うことだろう」となりがちだが、本質はそこではないと私は思う。         きっと人は他者を理解しきれない。「あなたはあなた。私は私。なのだから」今まで述べた論調も、“私的”であるし“グローバリズム”“SDGs”etc... を論ずる者も自分の主観(または経験)に伴い判断しているはずだ。

重要なのは、議論には様々な見方があるということを理解すると言うこと。特に“建築”や、ここで挙げた“地球温暖化”など、大きな範囲に影響を与え、関係するものであればあるほど、関わる人間も増え、考慮するべき考え方はより多くなり、その分判断しなければいけない材料も増えてくると言うこと。通信技術や交通網が発展し、範囲が拡大している現代は、従来よりも関わる人間が増えると言うこと。

これらを“多様化=「他者を理解し肯定しよう」”などと言った言葉で片付けしまっては、おかしなことになる。「自分が理解できていないかもしれない」と言う可能性が抜け落ちてしまっているからだ。          または、関わる人間に対して「なんで理解してくれないの?」と言う風になる。(と言うか、私自身、実際なりがち…)              これも、今までのことを考えたら、自分の中の落とし所が見つかる。  「他者も私と同じく、理解しきれないのだろう。」これを、“正す”ことでは決してない。その人の今までの経験に基づいた価値観なのだから、決して否定してはならないはずだ。


・現象として、考慮するべき範囲が拡大し、考慮することが増えている。

・それはもしかしたら理解できていないかもしれない。

・今見ている視点では、いけないのかもしれない。           以上を考慮するべきだ。と思う。


それでも、私は貪欲に、「いろんなニーズに応えるために、私自身がいろんな経験をしたい」と思うし、少しでもその制度を高めていきたいから、  今年、東京(都心)から長野(地方)に移住しきったわけだ。


その経験はいつかきっと自分の特異点になり、その先に問題解決の糸口が見える様になるかもしれない。

そんな期待を込めつつ、文化圏の違い、金銭面の疲弊 etc… ただただ耐える今日この頃。

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