『好き』と『嫌い』の向こう側へ...
僕が幼少期の頃、牛乳と卵の食物アレルギーだった。
そして同時にアトピーと喘息も合併して患っていた。
幼少期は母親が丁寧に食事管理をしてくれたこともあり
今では牛乳も卵も食べられる。
食物アレルギーを持っていると食べられるものは限られてくるし栄養も偏る。
だから栄養が偏らないように、そしてせめて好き嫌いをなくしてあげられるようにと、母親が精一杯の丁寧な食事管理をしてくれた。
そして
僕はそんな母親の思いの通り食に対しての好き嫌いはなくなった。
でも、それは
食以外でも好き嫌いの概念がなくなった。
僕の中で好きという段階は無くなり、それによって
『執着』『依存』『習慣』『夢中』が僕にとって好きの向こう側になり動く原動力になった。
逆に嫌いの向こう側は『無』『拒絶』『害』になり、これも僕の動く原動力の一つでもある。
そもそも好きだの嫌いだのなんてものは
僕にとっては雑な判断材料にしか過ぎない。
好きや嫌いで雑に簡単に動けたら楽だろうし、それが寧ろ正しいのかもしれない、人間としては、でも僕にとってそれは『美しくない』
母が食物アレルギーの僕に食事管理を丁寧にしてくれたように
自分自身が今、何で動いているのか?何が原因で動けないのか?
そこを丁寧に考え、噛み砕き、時には蹴り飛ばし管理をする。
そうじゃないとただの『野良猫(人)』になってしまうから…
『好き』と『嫌い』がないと無関心に思われたり冷たく見られるかもしれない。
でも
『人間らしく』あるより『自分らしく』生きるのが美しいと思うし
『自分らしく』生きることが『人間らしい』と僕は思う。
おわり
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