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余韻に浸る話(オーストラリア旅行・超長編)

どうも。この記事はかなりの(2万文字超)長編ですのでかなり読むのがかったるい人はバックをお願いします。また話が脱線してたり、表現がおかしかったりとちょくちょくおかしい部分がありますがすみません、そこは多めに見てください。(校正をしています240721)


もう半年以上前(結果5年も前の話に…)の話ですが、2020年の2月の中盤ぐらいから3月までオーストラリアに行っていたんです。自分自身、オーストラリアもですが、まず海外旅行が初めてでしたのでその当時はすごくワクワクしてました。

そこで楽しかった思い出が時々鮮明に甦る時があるんです。これは持病も関係していますが、少しオーストラリアのことについて話したいと思います。

初日は確か天候はそこまで良くなかった気がするんですが、確か曇りぐらいでしたかね。夕方ぐらいから雨だと聞いて正直雪の方がいいなーとか言っていた気がします。

後々気づくことですが僕が持っていたスーツケースはまさに最重量級で本当に容量もデカく、サイズも大きい大容量サイズだったんですね。

本当に今思い出すといろいろなことが蘇ってきます

今回はそんなオーストラリア修学旅行の余韻に浸る話をしたいと思います(長編です)

前日まで

2月初旬。いよいよオーストラリアの準備を本格的に始めようとものを揃え始めている時です。
非常に沢山の荷物が必要になるので準備は念入りに。とりあえず服は用意しました。服と言っても制服と、数日着る私服なのですが、この私服も後々の話ですごい重要になってきます。

2月中旬。いよいよオーストラリアへのフライトが近づいてきたというときに学校の連絡欄に衝撃の通知がありました。「新型コロナウイルスに関する学校の対策について」なんと、コロナウイルスの感染拡大で一気に行けるかどうかについて判断が曖昧になったんです。

結果的に感染対策をとって海外へ行くことになったのですが、後々みんなが大変な目に遭うことは若干この時点で把握していました。

初日【2月19日】

2月19日。制服を着ていよいよフライトという時です。フライトは日本時間の18:55でそれまではまだ時間のあるお昼時13時に集合場所に一度集合します(東京の真ん中らへんです。詳しくいえないので察してください笑)

その場所に集合するまでにすでに親がついてきたりや、友達とスーツケースの違いがすごいことやすでに驚きの部分もありましたが、初めての海外であり、日本以外の景色が見れて外国人と親しく話せるということに、もうワクワクが止まりませんでした。(この話は後の雑談欄に書いておきます)

15時過ぎごろにいよいよバスが出発し、みんなで空港へ向かいます。オーストラリアへ行くためには国際線、成田空港へ行く必要がありますので一時間ほどバスを走らせます。日本の景色もいい夕日が見れて海がとても湾岸線から見て綺麗でした。

空港に到着するまでは暇なのでいくつか写真を撮っていました。バス車内の写真が多いですね。実際カメラを持って行ったのはチェキのインスタックスミニ50s、それからデジタルカメラ(確かサイバーショット)を持っていきました。フィルムはざっと60枚ほど。

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いわゆるマイファーストカメラ

これははっきりもらった時期を覚えてます。まだ小学生だった時の頃にフィルムに目覚めたての頃ですね。失敗するからと親に反対されてこちらのインスタックスをものすごいねだってクリスマスプレゼントで2年分ということで買ってもらった記憶があります。当時は確か12000円弱ぐらいだった気がします。

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ごくごく一般的なチェキですが、少し機能や性能が上がっていて、電動2点の濃淡調整付きと日常で使う分ではかなり実用的です。


確か少し前にも二重露光などができるフラグシップチェキが出たと聞いたんですが、それも一時期すごい見てましたね…

実際カメラを持っていって撮影できたのは40〜50枚ほどですが、友達にあげた一枚ともう一つの撮ったチェキはものすごく上手く撮れてたと勝手に自画自賛してます…


かなり話が脱線してしまいました。成田の団体口についた時が確か17時前ぐらいだと思うのでそこから全員のスーツを下ろして20分ほど待機してやっと空港口へ行くことができました。

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SONY CyberShot 機種不明

これですね、しっかり時刻も残ってます。これはデジカメでの撮影ですね。

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このあと出国検査場にいって測った時に「HEAVY 28kg」とつけられたのはいい思い出です。(肖像権保護の観点から公開前の校正で掲載を取り止めました)

友達のスーツケースですね。その奥のもヘビーってついていました。(肖像権保護の観点から公開前の校正で掲載を取り止めました)

新型コロナが拡大し始めている当時にギリギリの判断で集団で行けたのは自分たちが最後だったそうです。その後のプログラムや渡航は今でも規制されてますね…本当にスレスレだったみたいです…


(公開前の校正でここに掲載予定の写真は取り下げられました。)


出国審査も何もかも当時初めてでしたので、パスポートを差し込んで顔認証をするゲートや、出国時のハンコ押しで何をするために出国するのかなどきちんと聞かれるんですね。
団体でもしっかり「何しに行きますか?」って聞かれました。「良い修学旅行にするんだよ」って空港職員に言われた時は映画でよくあるやり取りの様子を思い出しました。ほんとうにあるものなんですね

空港から出国のためのX線検査を出てきてスーツケースをベルトコンベヤーで運ばれて友達の重い荷物を下ろした経験は今でも覚えています。自分のよりは圧倒的に軽かったんですけど

。むしろ自分の荷物は最重量級でしたので動かしやすかったです。友達がそこでどうやら何かを探し出すそうでスーツケース開封をしてました。確か無くさないように大事なものを移し替えていたとかそんな記憶が残っています。

出国審査を終えて一時間弱の休憩ができたので空港内のショップを自由に回ることができるようになりました。フライトは夜の18:55分。フライトの30分前の18:35が搭乗開始ですのでそれまで休憩です。

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当時のロゴのじゃがりことカルピス、プリングルスとじゃがびー。全部でこれ500円しなかったんですよ当時。5年後に見てびっくりしてます。

こんな感じで空港でお菓子を買っては休憩してましたね…1人抜け駆けして空港でイヤホンなんか買ってるやついましたよ笑
そこで買わなくてもと思いつつ修学旅行の黄金の龍を買うタイプだと思い受け流します

本当に空港は面白かったです。いつでも寄りたくなります。自分はスターバックスのコーヒーも飲んでました、海外との比較もしてみたかったので、よくあるチェーン店がどう味が変わってくるのか当時は興味があったのです。スターバックスがサードプレイスの場を提供するように空港もまたサードプレイスになり得るかもしれません。

このフライトが2020年の2月19日です。中国では武漢で新型ウイルスが猛威をふるい始めた本当にその期間です。日本では繰り返しですがクルーズ船内の人が大量のクラスターとなって大騒ぎしていた時です。もちろん、この時全員マスク等はしていましたが、まだまだ日本はこの時期は危機的な意識は薄かったと思います。香港行きや北京行き、上海行きであろう飛行機がありましたが、香港行きは減便で、北京行きのはフライト表を見ても全て「cancellation(欠航)」の赤マークでした。やはりこの時期から影響はあったんでしょうね。この時のフライト表が見事に撮影できていませんでした。。惜しい。。

時間も経ってチェックイン時刻です。パスポートを最終チェックの係員に渡してスタンプを「ドン!」と。これはたまらなく嬉しかったです。まさにこのスタンプが映画で見るようなもののまんまで初めてのことでしたので感動しました。。映画の見過ぎかもしれないですが笑

チェックインして空港の搭乗ゲートまでゆっくりと日本の夜景と飛行機と共にガラス張りの道を歩きました。とても綺麗でした。単純な話ですが本当に全てにワクワクしていました。


QF61便。オーストラリアにはこの便が日本と直通している便です。飛行会社はカンタス航空。オーストラリアの会社で赤い背景に白のカンガルーのマークがトレードです。機体はA330だったような気がします。飛行機には詳しくはありませんが、当時の履歴的に多分これかな?と。搭乗ではCAさんが丁寧に番号を見て案内してくれました。

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飛行機の中に乗ってからは本当に自由時間でした。

隣の人は仲のいい男子と一緒でしたが、通路側の隣にはちょっとクセのある同級生で、とても飛行機を怖がってました。なんせ、その人はあの飛行機が離陸するフワッとした感じ(内臓が動く感じ?みたいなもの)がすごい苦手らしくいろんなところに手を掴んでました笑笑

正直自分はあの日本から脱出して、ある程度は自由に行動できて、行き来できるあの快感と感動でウキウキしてました。自分はあの浮遊感すごい好きな人です。

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最初のウェルカムドリンクと途中の機内食。日本食を選べますが経験則(初体験だが)でやめておきました。
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機内食が日本食では合わない、というのは有名な話です。これで正解でした。普通においしいものでしたよ。

これはディナー時の食事ですね。確かパスタみたいなものを頼んだと思います。熱くてちゃんとしっかり具材もあるしで普通に美味しかったですけど、日本食を他ので頼んでいた人は少し美味しくないと言っていた人もいましたね…日本食の難しさなのかな?

機内では本当にすることもなく日本時間では真夜中の時間帯なので当然真っ暗で眠いままでしたが、すでにコンタクトをつけてしまっていて寝るにもったいなかったんですね…「つけて一時間のを外すか…」と思い実際現地につくまでずっと起きていたんですが、私ごとで考え事をずっとする癖があるのでいろんなことを考えては映画を見たりといろんなことをしていたのでそこまで困ることでもありませんでした。

飛行機のトイレには非常に驚きました。なんだってトイレと言っても飛行機は初めてなので当時の自分には使い方がわからないわからない笑

スペイン帰国子女の友達が教えてくれましたがそれまで流し方も分かりませんでした…ちょっと恥ずかしい、一種社会勉強ですね。

途中、ホラー映画耐性はあるので、IT|《イット》でもみようと思い席で見てたんですが、怖いシーンでいきなり周りがドンって動くもんだからイヤホンをしていた自分には何が起ってるのかわからず振り返るとみんなこの映画に釘付けなんですね…すごい見たそうにしていたのでそのまま続けてみることにしました。やっぱ囲んでみるぐらいが学生の当時にはちょうどいいんでしょう。

機内では月が真横に見えるのを写真に撮ってたりしてたんですが、席が遠くて窓に届きませんでした。惜しかった。

高校生の自分ですが、まだスマホもパソコンも所有していないのでその周りが全員持ってるスマホがとても、当時はうらやましかったです。

じゃあこれはどう書いているのかというと、学校のパソコンと家の親のパソコンで書いてます。(当時の後付けが入っています)

夜明けの四時ごろぐらいからですが、飛行機が揺れるようになりシートベルトが必須になりました。乱気流で結構揺れた記憶がありましたが、飛行機って揺れる時はすごい揺れるけど、揺れない時は本当に静かで揺れないんですね…航空力学ってすごい…感心させられました。

飛行機の曲のリストにAviciiがあってすごい聞いていた記憶があります。Avicii教なのですごいリピートして、その時の曲がすごい記憶に残っていて。tough loveとheavenは特に印象が強かったですね。
Aviciiは特に日本が好きな方で日本の曲をアレンジ、インスパイアされて作られた曲が何曲かあります。晩年のほうまで結構日本のことが好きで講演のことも話していたそうですので惜しいものです。でも音楽はこうして残るので聞き続けることが記憶に残り続ける近道でもあるのでしょう。

空港へ着く50分前ぐらいでしょうか、珍しい光景なのか上空で燃料が余ったのか少し捨ててましたね。でも本当かどうかはわかりません。それが燃料投棄の音なのか違うのか、、そもそもA330には投棄機能はないよ、とかだったら完全に私の無知です。
20分ほど前になって、旋回し始めて初めて着陸が近づいていると感じました。現地時間5時でした。(日本時間早朝4時)いわゆる旋回行動というのは早着過ぎたゆえの待ち時間だったようですね。予定より20分早く着いたそうです。(当時の上空の風が追い風だったことに起因したそうです、メッチャ速かったですよスピード)

空港に着陸した時のみんなの歓声と外国人のノリの良さには驚きました。外国人ってすごいこういうことにノってくれますよね。日本ではマナーを重んじるのであまりこういうことはないかもしれませんが、、結構うるさくしてしまったか?と思いましたが、大変親切な外国人さんだったといま改めて思います。異国マナー、常識を身に着けるのにもこうした行事は結構重要だと感じます。

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当時は写真をうまく撮ろうという意識がなかったので水平とかの意識もありません。ありのままですね。

ブリスベン入国審査を通るときに空港税関さんに「果物は持ってるかい?肉とか?」って聞かれて食料は少し持ってましたが果物はないと言って監査を通過できましたが、カップ麺類等は通過できるんですね…(後から調べたら密閉包装容器はOKらしいですね)

空港監査が終わった時に気づいたんです。香水って大丈夫なのかなって見たらなんと「アウト」でした。結論を言えば日本、オーストラリアどちらの監査も抜けれた…これはびっくりです。(後からわかったことですが、割れない瓶に30ml以下でしたらセーフのようです、ですのでアウトというよりはグレーですね)

そんな監査を抜けて団体口の場所に集合して待機してると班に分かれます。班は全部で8班あってそこからは別れて行動します。

バスが来てようやくみんなとは一時的にお別れ。すこし別行動をしてから展望台に行くまでは班内での行動です。

班のメンバーは完全にクラス関係なくバラバラでしたのであまり話したことがない人もいましたが、何とかやっていけていました。

まず初めに向かったのは市内の中心部にある教会とストリート。すごい広くて駅もありましたが、ラッシュの時間なのに人は全然いませんでしたね。さすが車社会…

そんなこんなでバスは走り続け最初のスーパーマーケットに到着しました…確かオーストラリアのブリスベンのほんと中心街だった気がします…

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一部処理済、5年前でも今のことのように覚えています。

(個人情報保護上、白塗りしています)

こんな感じの大きいスーパーでした…すごく海外感があって日本ではあまり見ない食材もあって驚きました。

そこで購入したのがチリソースポテトとジュース。確かカルピスも売っていたんですが、中国語表記でした。カルシソスイゴ?読み方がわかりません笑
(可爾必思だったかな)

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こんな感じの船も普通にあって海外に来た実感がだんだん湧いてきました。

もちろん、信号機の写真も撮ったんですよ!

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展望台の景色の一部です。多分上のこれが一番広角で撮ったものだと思います。空は広いですね。さすが南半球の大陸だけある。

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ブリスベンは空が広いですね!非常に広くて爽快でした。日本がビルだらけで空が狭いって言われている理由がいまいち分からなかったんですけど、ようやくわかりました!空は広い!でも東京の空が狭く見えるのはあそこが平野だから。

この日は若干曇りかけの日でしたが、とても綺麗な撮影ができました本当に綺麗。いつ見ても見入ってしまうほどいい景色でした。

その後みんなとその展望台から別れるのは30分後でしたが、しばらく異国の地で1人で生活することに不安を覚えて泣き目になっている友達同士もいました。自分は日本から解放されてとっても嬉しいしこんな綺麗な場所があることにとても感動しましたし、束縛からも解放されて自由なので全然悲しくなかったです!

いよいよ出発の時です。ここからは二週間班の友達以外の人とは二週間会えません。みんなはスマホ持っててすぐ話せるとは思いますけどね?

別れて初めて行った場所はいきなり現地校でした。現地校で別れた班になっているのでホストファミリーもその学校の周辺に住んでいる人に自動的に選別されます。もちろん、選ぶことはできませんし途中で帰るのは親が亡くなったり火事になったりしない限り原則できません。


現地校に到着すると、まず校内にいる生徒さんが「コンニチハ!」と話しかけてくれて自分たちもすかさず話しかけると言った状態でした。案内されたのは“Chats wood hills state school”という小学校でした。一つの班だけ中学校に招待されている場所もありますが、自分が英語が得意というわけではないのでそこには選ばれませんでした笑


学校について率直に驚いたのは広い!っていうことでした。あまり日本と比較するのもアレですが、日本とは比べ物にならないくらいの広さに充実した設備、実に伸び伸びとした空間で作業できる部屋や大きな教室があります。何年代かは覚えていませんが創立からそこそこ経っていて風情のある校舎でした!


その学校のライブラリールームという場所で二週間を過ごしていきます。学校の図書館とは違い、総合室的な役割と果たしていてその部屋の隣には現地の子供たちが日本語を習う教室の「Japanese room」がありました。


このルームに行く途中にも売店等がありお水やジュースが売っていました。生徒さん、お迎えにくる親御さん等先生も購入できてすごく自由だそうです。日本では小学校に売店がついていていつでも買いに行けるなんてことなかなかそんないい話聞きませんからね。せめて中学からです。


ライブラリールームに入ると20人ほどの生徒さんがお出迎えしてくれました。中に入ると自分たちの席が用意されていてグリーティングが始まりました。


グリーティングは約30分ほどした後、これからパートナーとなるメンバーが発表されて一人一人にパートナーがつきました。僕のパートナーは運動が大好きで日本食では寿司が大好物ですごく親にねだるほどの大好物の子がなりました。


早速パートナーに別れてお互いの自己紹介をして外で遊んだりなどをしました。この頃は日本では新型コロナウイルスの感染拡大の直前とも言えるクルーズ船の感染者が出始めていた頃でオーストラリアでは感染者は5人しか確認されていませんでした。しかも5人に関しては別の島に隔離されるという徹底ぶりです。


現地に着いた時も既に消毒の措置は始まっていましたが簡易的なもので指先の消毒と手洗いが必須でした。正直これは普段の生活と変わらない措置でしたね笑

パートナーとの親交を深めたのちに夕方になると最後にもう一度挨拶をしてしばらくはライブラリールームで同じ班の人たちと休憩に入ります。この間に様々な話をしました。

10分ほどしてコーディネーターさんからまもなくホストファミリーが到着するので準備するようにと言われていよいよとみんなドキドキしてました。コーディネーターというのを紹介し忘れていましたが、この方は空港で自分たちをこれから二週間管理するいわゆる先生的な感じの人をいいます。現地に住んでいるので飛行機には乗っていません。


コーディネーターさんから順番にホストファミリーの名前が呼ばれていよいよ個人でホストファミリーとの行動、つまり本格的な英語学習のスタートです。呼ばれたらその場で各自解散で午後のホームステイがスタートします。


僕のホストファミリーは4人家族で男女の子供が2人いる家庭でした!趣味は極力合うような家庭に設定したのでほとんどの趣味が揃ってました。カメラや音楽、自然にヒッチハイク、ドライブやカフェ、ライブや映画など。本当に最初の下調べって重要なんですね。

初めて話した時はかなり緊張していました。正直、外国の方と話すのは突然だとやはりおどおどします。ですが、フレンドリーなのですぐに慣れました。

4人家族の子供は小学4年のお姉さんが1人と日本で言う小学1年の年の子が1人いらっしゃいます。まずはお母さんと一緒にその子供達を迎えに行きそれから車に乗せてもらいました。

車は日産のエクストレイル。後で聞いた話ですが、かなり山奥に行く時もあるのでSUVなんだとか。海外ですのでド派手に走るようなこともあるそうですよ。

車に乗って2人の子供とご挨拶をして簡単な自己紹介をしました。とても元気で可愛らしい2人でした。初日で2人で向かったのはすぐ家でしたが、家はブリスベン市内近くの大きな市街地の一角にある合同ハウスに近いものでした。(向かいにお母さんの両親が住んでいるので二世帯に近い?)

家には隣にその合同ハウスの住人が利用できるプールがすぐ横についていました。それもかなり大きい!これは楽しみがいがあると思いましたが、自分は飛行機で九時間も乗ってその後になれない地域での生活ですので若干体力が疲れていました笑

まず中に入ると感じたのはやはり土足で入ると言うことです。オーストラリアでも一部の家は土足ではなく脱ぐところもあるそうですが、本当に一部だけだそうです。この家はざっと一回は20畳ほどありました。日本よりもかなり一部屋づつが広い。

初めに自分のスーツケースと荷物を置くために二週間生活する部屋に案内してもらいました。男の子の部屋と一緒です。ベッドは二段ベッドで部屋は日本の12畳ぐらい。なんと日本の自分の家にもあるIKEAの収納三段ケースがここの家にもありました。個人的には初めに親近感が湧きました笑

部屋に荷物を置くときに、荷物が2階まであげるのに重い重い。28kgもあるスーツケースですのでお父さんも少し車から下ろすのに重そうにしてました笑。お父さんすみません笑

言い忘れてましたがお父さんは初めから家にいました。お父さんは出勤する日、しない日があって作業服を着ていたので多分重工業系?の会社に勤めているんだと思います。現場監督とか責任者みたいな感じで言っていたのでそれに近いかな?

家について色々な説明を受けて少し休憩に入りました。この日の予定は「プール」と映画鑑賞、そしてウェルカムパーティー。プールに入るために急いでスーツケースをこじ開けて水着を取り出しました。

まだフライトから二時間ちょっとほどでバスをかなり乗り継いでいるので疲労もありましたがプールはすごく楽しめました。かなり冷たかったですが、親戚の人と一緒に16人ぐらいでみんなで遊びました。

それで家に戻るともう順番にシャワーという感じでそれぞれ着替え始めますよね。ちょうどこの時の時刻が17時ぐらい。あちらの国ではほぼ夜ですが、空は全然明るいです。本当に日本の夕暮れぐらいです。

着替え終えると映画鑑賞が一階で始まりますね。映画鑑賞ではこの日はマーベルシリーズをずっと鑑賞しました。見たことがなかったのでとてもおもしろかったです。

映画鑑賞中途中からどうも寝てしまったそうで18時半ぐらいに「ご飯だから起きてー」と言われてしまいました。「疲れてるのね。今日はご飯食べてゆっくりしてね」と母親に言われ優しいホームステイの方達だ…と感心してテーブルに向かいました。この日の食事は確かリゾット風の食べ物が出てきたと思います。とてもおいしかったです。AUGビーフがいい味出していたのだと思います。


ご飯を食べてからしばらくは休憩に入るので子供達は好きなことをして遊んでいたと思います。自分はレポートがあるのでその夜の時間はレポートの制作をしていました。レポート画面を開いてカメラを置いて写真を確認しながらコーヒーを飲む感じがもう海外にいるっていう感覚ですごい悦にいる感じでした。


レポート作成も終わって皆さん就寝前の20時過ぎぐらい。スーツケースを開けて持ってきたものを確認しました。少なからずの日本料理とカップヌードル。ご飯の白米は日本が恋しくなった時ようです。(自分はそんなこと全くなかったですけど)日本はオーストラリアが20時の時、21時を指しています。ちょうどお風呂に入っているぐらいです。オーストラリアの生活様式は日本と少し変わっていて夜中という概念が22時ぐらい、早朝が3時ぐらいの感覚だそうです。日本では夜中というと12時過ぎぐらいかと思いますがそこに関しては国柄として違いましたね。夜は寝静まって本当に静かになる感じで、オーストラリアの人は若者でも普通に徹夜なんてしないそうです。夜遊びはかなり悪いことみたいな風潮があるそうです。

実際自分もレポート作成して歯を磨いて寝る直前で時刻は20時半でしたので相当早いんじゃないかと思います。

二段ベッドでの就寝時お父さんが寝かしつけのために波の音を子供に聴かせていました。いやー粋ですね。すごい計らいだと思います。自分は夜に空を見ながら考え事していた記憶があります。考え事といってもこの時自分には好きな人がいたものでどうこの修学旅行で告白しようか、なんて考えてました。まあこの手の話は今回の話と趣旨は違いますので省きます。夜の星空はすごいきれいでした。写真を撮りたいと思いましたが、あいにくチェキでも撮れませんし、スマホはもともと持っておりません。焼き付けようと思って長いこと見ていました。


そういえば気候の話ですが、日本がこの時2月下旬。かなり寒いですよね、確かフライト前は9℃ぐらいだった気がします。オーストラリアは夏から秋にかけてのぐらいなので日本で言う9月初頭ぐらいの気温です。寒暖差が若干激しいので昼間は35℃近く上がる時もあって夜は18℃ぐらいまで下がる時もあります。とはいっても日本の気候はとても湿っている感じがあるのはご存知かと思います。日本の35℃とオーストラリアの35℃ではかなり訳が違いました。日差しは同じかオーストラリアが少し強いくらいの強さで、体感的な暑さは圧倒的日本でした。日本の27℃=オーストラリア35℃ぐらいの差がありました。ここが一番わかりやすい気候の違いでしょう。


そんなこんなで寝るのに30分ぐらいかかりようやく寝て初日は終了しました。

初日を超ざっくりまとめると

【集合】→【フライトで友達と話す】→【到着からの興奮】→【バスでスーパーと展望台へ】→【みんなとしばしお別れ】→【現地校へ挨拶】→【ファミリーと対面】→【ファミリーと次の日の学校まで自由】

みたいな感じです。ミニレポートには『このように初日は少しやることが多くドタバタしている印象がありましたが、比較的余裕を持って行動できました。遅刻等もせず協力して初日は終了できました。次の日からは本格的な授業が始まるので楽しみです。』と書きました。


2日目(現地日2020年2月20日)


二日目を迎えました。朝起きたのは5時。日本ではまだ4時です。オーストラリアでは5時は普通に起きる時間で日も昇っていました。やっぱり空は広い。

下の階に降りて朝食の準備。「おはよう!朝何食べたい?」と言われてコーヒーを渡され目覚ましに。「どんなものがあります?」と聞いてトーストや麺類を見せてもらい最終的に二日目の朝食は「インドネシアンヌードルとエッグトースト」をチョイスしました。お父さんがとても作るのがうまく、美味しいトーストでした。インドネシアヌードルはインスタントですがソースがとても豊富です。ソースから胡麻にチリソース、さらには醤油までついていました。一つおよそ50円ぐらいで5個買うと200円と割引されます。

この二つを食べて少し休憩をして着替えに入ります。着替えには意外と時間を要するので自分はあらかじめ「あと何分ぐらいで出発ですか?」と聞いて置いて「40分ぐらいね」と答えてくれました。いつも学校へは車で10分ほど、7時20分ほどに出発するそうです。日本から持参したメイクアップ品をして軽く香水をつけて出発します。(雑談欄に記載しておきます)お弁当も用意されていました。子供たちも制服に着替えてさあ二日目の出発です。


二日目の出発で子供達と一緒に車に乗り込みます。エクストレイルというSUVですのでものすごく派手に走ります。山などにも行くそうで、「今週末連れていってあげるわ」と答えてくれました。やった!と喜びました。自然も好きなので笑

学校へ着くとすでに何人かは揃っていました。ホームステイの子供たちとは一旦は解散で今日は班の子供達と合流する前に自分たちだけでまず英語の授業を受けます。ライブラリールームに向かうともうみんなワクワクが止まらない感じでいました。自分の席について少しばかり休憩。授業の用意をして初日についての話を近くの人としていました。女子の人は「お風呂に入れない」とか「姉妹がめっちゃ可愛い」とか「男部屋で着替えるんだけど笑」とか男子も「めっちゃいかついお父さん」とか「結構話せたわ」とか「ワニワニパニック知ってた」(?)とか話してました。

現地校での最初の先生はもう名前が難しすぎてわかりませんがすごい印象のいいやさしそうな先生が来ました。先生に挨拶をして初回の授業の準備が始まりました。渡された書類はまず【オーストラリアの地図】【小学校の教科書】【筆箱(プレゼント品)】【シャープペンシル(プレゼント品)】【この学校の地図】【お金の換算表、物価数値】【この学校の校則とマナー】【日常英会話に使える例文集】でした。例文集と換算表はすごい重宝しましたね。毎度のことのように見ていました。

その後は授業を繰り返し、10時半になるとモーニングティーという習慣で食事が入ります。お弁当を食べるのもよし、飲み物を買うのもよし、雑談するでもよし、校内を散策するでもよし、遊ぶでもよしのなんでもOKな時間です。約20分ほど。

それが終わるとまた授業に入ります。班での会話や表現についての授業がこの日は多くたくさん話しました。

お昼は一緒にいるパートナー(バディ)と一緒に過ごします。大抵は遊びをしました。ラグビーやサッカー、バスケなど。帽子は必須です。焼けるので。


午後はまた授業を行います。この授業では動物などの名前についても学習して気候にも触れます。この授業が終わると、学校が終わりホームステイになります。

授業終わりみんなで帰りを待ってホームステイにみんなで別れた後、自分のファミリーが今日の予定について話してくれました「今日はこの後買い物に行って帰りに寿司を食べるのよ!」と。子供たちはもうキャーキャー。相当日本食が好きみたいで喜んでいました。買い物にはお父さんも合流して学校からそのまま直で向かいました。買い物で日本人が制服を着て買い物しているので異国の人からしたら少し特殊状況です。多分留学人と勘違いされているんでしょうね。色んな人に話しかけられました。

こういう状況を撮影しようと思いカメラを持参していました。デジタルカメラの電源が何故か入らない。画面はどこも割れていないのに電源だけが入らない。後で分かったことですが内部の基盤が午前の授業中の時にどこかに当たり間z年位真っ二つになっていたそうです。ホームステイの人に壊れてしまったことを伝えるとお母さんが「コーディネーターに聞いてみるわね」と親切に書いてくれたのですぐ解決しました。カメラは壊れてしまいましたが。

買い物中はいろんな人と話すのはやはり本当なようで知らない人とも普通に「こんにちは。レジ打ち多くてごめんね」みたいな感じで店員に話してました。自分も話しかけられて「君はどこから来た人なの?」と聞かれたのですかさず「日本から来ました。これから二週間はこちらに」とカタコト英語でなんとか答え切ることができました。英語は苦手なので難しい。

僕がいったお店は隣にアジア系のお店が付属している珍しいところで日本食や中国料理、他にも海外の料理に精通しているスーパーがありました。そこにも立ち寄ってくれて「自由に見てていいわよ。少し私も見てくるわ」と1人でスーパー内を散策。スーパーには日本食も普通に置いてって「キッコーマン絞りたて生醤油」とか「濃口つゆ」とか「オカメ納豆パック」などが印象的でした。納豆はサンパックであちらのお金の換算で550円。とてもじゃないけど高いです。つゆも1リットル1000円と破格。一番高かったのは日本のうどんやそばなどで2000円とか書いてありました。すごい値段です。ここで購入したのは韓国料理のハットグ、韓国で2番目に辛いインスタント麺の「ヘクプルダックポックンミョン」通称「核レベルで辛いブルダック(鶏)炒め麺」です。それから日本でお馴染み醤油を少しとインドネシアヌードルを購入。サラダ等は購入しているのでここでは買いませんでした。

このお店を立ち寄る前に実は日本食を食べに行っています。この話をするのを忘れてました…

日本食のお店には大きく「寿司」と書いてあり下に「Japanese food!! Sushi!」と書いてありました。なんとも言わんばかりの親近感が湧き案内されてお茶はなんと緑茶でした。回転寿司になっていますがカウンター席が中心のものでファミリー席ももちろん完備されています。何個かサーモン系を頼んで食べてみましたが日本で普通に通用する美味しさです。

海外向けですのでマヨネーズはかなり多い量でしたがキューピーマヨネーズでした。驚きです。店長さんが不思議に自分のことを思ったのか話しかけてくれました。「오랜만이야!한국분이세요?(久しぶり!韓国の方だよね?)」と話され一瞬困惑しました。店長や店員は韓国人で日本で修行を積んだ方だったそうです。韓国語は趣味で少しだけこの時できたので「아니요, 일본인입니다.(いえ、私は日本人ですよ)」と答えると「ニホンジン!アリガトウゴザイマス!オイシイデスカ!」と聞いてくれたので「とても美味しいですよ!맛있어요!」と話しました。ファミリーにも説明して「そういうことね!あなた3カ国いけるの?」と納得してくれました。

唯一言うとすればやはりお値段ですね。コスパは若干悪いといえば悪いです。一皿250円ですので…4人で食べて日本円で6000円近く行きました…それでも店内は人がいましたね!

5年後のはしがきとしてこのエピソードを付け加えると今はそのお店がどうなっているのかよくわかりません。近くにColesなどがあったのは覚えていますが、、

買い物をして家に帰宅したのが午後4時半過ぎ。そこから荷物を整理して休憩。スーツケースの荷物整理やレポート、宿題、犬と子供達とお遊びしてました。そう言えば犬の話をしていませんでしたね。犬の名前はクウダと言っていました。どう言う意味だったのか、由来とかは聞いていません。元気な中型犬ですが種はわかりませんでした。5歳ほどだそうです。

それから少しばかりして夕食。お肉系料理でしたが名前は覚えていません。でも美味しかったのは覚えています。

夕食後は自由時間となってまた初日と同様のように就寝の流れです。基本的にお風呂(というかシャワー)は寝巻きを用意して泡立てのスポンジを持って歯ブラシ等の清潔用品を済ませてから出る感じです。

自分は泡は結構もちもちしたいタイプなので結構時間がかかります。お風呂上がりにはカメラをいじっていました。壊れてしまったのでコーディネーターに新しいものを特別に用意してくれましたが、SDカードがバラバラになっていて、急遽替えの自分のSDカードを差し込みました。(このカメラダブルスロット非対応でした…)


夜寝る時は今日の学校の出来事や楽しかったことをしおりに記録して就寝しました。自分の私事の考えもしていましたが割愛します。(雑談欄に載せます)


3日目【現地時間:2月21日(金)】


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三日目の朝を迎えました、朝の気温は19度で快晴です。朝一階に降りて朝食を頼みました。今日の朝食は韓国で2番目に辛いと言われているあの麺です。この麺。シリーズ化されていると言うか色々な味のレベルがあり、今回食べたのは一番辛い部分です。どうやら僕が読んだ記事では「韓国人でも辛くて食べられない」「タバスコの単純2.5倍の辛さ」だそうでそれをこれから一週間ちょい食べることになります笑

日本でもペヤングのENDや地獄激辛などもありますがアレの倍は辛いです。日本と比が違いましたね…


さて、こんな激辛料理を食し、朝からこんなもの食ったら死ぬんじゃないかなんて思いながら揺れる車で学校へ行きました(揺れですらもう腹が怖かったです。お腹は一度も壊しませんでしたが)

オーストラリアのトイレは基本的に水洗ですが流し方が少々特殊です。トイレットペーパーが流せないものもあれば上のバルブを押すものがほとんどです。どっちが大かわからない…TOTOもありましたが、手を乾かすジェットファン、アレがダイソンなのはびっくりしました。異常なほどの強さ…手にこんないるか?と思っちゃいました笑


今日の授業は基本的には二日目と同じですが、少し午後にパートナーと一緒に授業をする時間が設けられています。午前は簡単でしたが午後実際に話すとなるとやはり難しいですね。英語の難しさを痛感しました。


午後授業終わりになると週末に入り1人で家族と過ごす時間が増えます。先生やコーディネーターから週末の過ごし方やマナー、ノウハウについて30分ほど説明を聞いて授業は終了します。プールは雨で2m半近く深くなることがあるので泳ぎに自信がない人は注意してくださいとのこと。必ず敬意を払うこと。この手は常識ですね。どこでも関係なくです。

家に戻りファミリーとの週末が始まります。僕は近くの女子友達と週末どんなことをして過ごすか軽く話をして車に乗り込みましたが、海に行く人もいれば試合を見に行くと言う人もいました。

今日はすぐに家に戻り映画を鑑賞しました。ディズニー映画です。かなりオールドなものですが楽しめます。さすがウォルトさんの創作だ…


夕食は本日はお肉料理。すごい豪華なステーキ肉もあって横にはなんと麺類が!

これにばかりは目を取られ特に好きな料理でした。すごく美味しかったです。

その後夕食を済ませたら昨日と同じように就寝します。夜はサイクルが整ってきました。


4日目【現地時間2月22日】(週末)

いよいよ週末初日です。最初の週は前にもお伝えした通り山に向かうそうです。国立公園と世界遺産の滝を観察して動物を触れ合うそうです。朝の起床は5時。なかなかはやそう見えますがやっぱり普通です。気温も16度とかあり過ごしやすいです。

この日は運動もするようなので少し軽い服装でランニングシューズといった感じでしょうか。上は自分のお気に入りの「girls don’t cry」というブランドのシャツを着てました。韓国のブランドです。

車は日産のエクストレイル。やはり海外では必須の車。一回の旅行で1000km近く走ることもザラにあるとか。自分は右側の後ろの席に子供2人と一緒に乗車。車のメーターを確認したらすでに11万キロは走ってました。すごい耐久性…

ちょうどこの時から本格的にカメラを貸与してもらい新しいカメラではありませんがこちらが主力となりました…機種はオリンパスのE-410。普及機のように見えましたが機能は充実していたのでそこそこのお値段だったのでしょうか。一体いくらしたんだろう。

車を走らせてまずはじめにハイウェイに乗ります。日本でいうところの高速。高速ですが無料道路で特に規定もありません。土地が広いので余裕があるそうです。4車線道路が普通でした。ただその分地方税として徴収があったりします。道路工事の会社も多くそこがお金をもらって仕事として道路修繕を行っている企業も多く存在するのでそうしたビジネスとしても成り立っています。

ハイウェイを走らせて1時間ほどしてラミントンという地域にやってきました。のどかな田舎町のような雰囲気がありこの場所はオーストラリアの伝統お菓子のラミントンケーキ発祥の地だそうです。なるほど。。

ラミントンの場所を抜けると峠道に入ります。いよいよ山の中に入る感じです。かなり広いですが山でも随分と車は走ってます。山の麓には牧場等があって牛などが放し飼いされいました。海外でよく見るトラクター注意の看板などもここで初めて見ました。車を進めて1時間半ほどして山の入り口に入ってから子供さんの調子が悪くなり車酔いだということで、一旦山の中で休憩に。山の空気はとても綺麗でした。すごい絶景でしたね。さすが世界遺産の中なだけあります。動物や見たことのない昆虫までいて昆虫はさわれないので無理ですが、不思議な物でした。

少し休憩して本日のメインであるオーレイリー山というところに到着しました。

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Olympus E-410

こちら、休憩時に撮影した場所です。奥の山々はクイーンズランド州ではなくそのお隣の州となるので外国人は確か申請?的なのがいると聞きました。手前は牧場で小さな池もたくさんありました。

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Olympus E-410

オーレイリーの看板です。

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Olympus E-410

こんな感じでかなりはっきりとした看板です。にしても2008年でこの性能。レンズが相当いいやつだったんでしょうか。

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Olympus E-410

これ、参加はしませんでしたが飛んでるところは見ました。すごい迫力ある物でしたね。盛り上がってました。


入り口にある駐車場にはざっと80台ぐらいのスペースがあって道も広くバリアフリー管理がされているので安心できる場所です。ただ海外の方からの外国語版説明は中国語版のみとなっていてある程度は学習したほうがいいと思います。

この場所で軽く持参した軽食を食べてハイキングに向かいます。ハイキングの諸注意や「ここに行ったら助けられないから死にたくなきゃ行かないほうがいいよ」的な看板もありました笑

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Olympus E-410

まずハイキングに入ると薮道のような場所に入り道なき道を進みます。本当にジャングルですね。

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Olympus E-410

こーんな感じの木は拓sなん生えてました。すごい大きいんですよこれ。

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Olympus E-410

そういえば入り口にこんな飛行機がありました。スティンソンと書かれたこの機体調べるとこんな内容でした。

1920年代から1950年代まで存在したスティンソンという航空会社でアメリカ出身です。この機体はそのスティンソンのモデルAのレプリカ機だそうで、この機体にも意味がきちんとありました。1934年に製作されたこのモデルはトライモーターと呼ばれるエンジンを採用したもので、31機作られたそうです。旅客機ですので乗員を乗せることもできます。

この飛行機は1937年に旅客運行中に姿を消したそうです。姿を消した原因がわかっていなくこの飛行機が「オーライリー氏のゲストハウス付近に機体があるのではないか」と考えて、調査したところ残骸を発見したそうです。つまりここは事故が起きた場所ということになるのです。

さらに話を掘り下げると、このオーライリー氏は元々作家さんで、最初の飛行機の発見者もこの人だそうです。この時オーライリー氏は2人の人を救助して有名になったそうです。なんと救助に二十六キロも歩いて熱帯雨林から救出したとか。確かに熱帯雨林でしたね。。

この墜落機の捜索には初め空軍が行なっていたそうですが見つけられず捜索中断になっていたそうです。

そのごの目撃者から航空機が低高度で大雨の中を飛んでいるということを当時語った人がいたらしく山脈で墜落したのではないかと捜索を再開したそうです。初めにオーライリー氏がハイキングをして私有地の捜索をしてキャンプをしていてその後に崖から転落して死亡している犠牲者を一人発見したそうです。この方は一度墜落から免れた生存者でしたが、当時携帯なんてものはなく、ラジオも機器も故障している中一人で助けを呼びに行った際崖から転落して死亡したそうです。そのあとすぐに飛行機も発見され近くにいた生存者二人も発見されたそうです。他の乗客は墜落事故により即死か、惜しくも息絶えた人がいたそうです。犠牲者には新しいブリスベンの劇場を作る監督をしている人もいたそうで、あのかのメトロゴールドウェインヤーの一員だったそうです。

最終的な墜落原因は乱気流による操縦ミスと人為的なミスが招いたものとされ調査は終了したそうです。この記念碑が今回自分が行ったオーレイリー山にあるそうです。

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Olympus E-410
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Olympus E-410

こんな鳥もたくさん飛んでいてしかも野生の鳥たちでした。

少し進んでいくと大きくひらけた場所に出ました。

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Olympus E-410

こんな感じの滝があって滝側からの視点で見ると絶景が広がってましたね。惜しくも写真は撮れませんでしたが。。

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Olympus E-410

ここもすごい落差がありましたね。崖という感じです。まさに。これを落ちるってどんだけの距離や。。

こちらを向かった後はこの山が山頂ですので一度山を降ります。

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Olympus E-410
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Olympus E-410
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Olympus E-410

ラミントン国立公園のマーク。伝統的なシンボルは当時から変わっていません。

この場所を降りて一度休憩に入ると午後にまた違う場所でナイトサファリを行うと告げられました。ナイトサファリはすごく楽しみです。元々学校のカリキュラムにも含まれていますが予習しちゃいましょう。

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Olympus E-410

この異国感あふれる感じ。自分にはたまらなかったですね。本当に楽しかった記憶が今でも甦ります。


その後ナイトサファリに向かうときにドライブするんですが、ドライブ中にも色々なことに遭遇しました。お父さんが運転するのでスピード感満載でしたね。カーブも多いしうねりやその暗さがすごい爽快でした。虫なんかも光ってる虫が飛んでいて何かと幻想的でしたね。夕暮れ時に通った橋があったんですが、すごい月明かりで綺麗でした。途中途中の家もどこか懐かしさを感じる田舎の古い家の感じがして「ここまでどうやってくるんだろう?」って考えてました。

ライトを消してこんなに真っ暗なんだよって教えてくれながら言ったナイトサファリは楽しかったです。

ナイトサファリの場所に到着するとどうやら観光の方がいたそうです。恐る恐る近づいてみるとなんと全員日本人。ここで初めて日本語で「留学中ですか?」と話しかけられました。「修学旅行なんです!」と答えてみんなほんわかしてました。「頑張って」と励まされその場を後にしました。日本人ツアーでこんな場所まで来るんだと思いどんな場所か聞いたところ、お父さんが「ここは世界遺産で上から光の差し込む滝があってそれが有名なんだよ」と聞きました。洞窟のような場所に綺麗に真ん中から光が差し込んで滝の水が見えるという幻想的な場所でした。ホタルとコウモリの量は尋常じゃなかったですけどね。そこをかき分けて森の中を歩き回ります。気温は14度。山の中なので夏でもこのくらい冷えるそうで、真冬は雪が積もることも少々。数少ない雪の降る山だそうです。


そこを1時間ぐらい探索して幻想的なナイトサファリを終えた後2時間半ほどして帰宅しました。帰宅中も爽快感あふれるドライブで途中子供は二人とも寝てしまいましたがお父さんと二人で雑談してました。楽しかった!


そして帰宅してお風呂に入って長らく休憩をしてまったりとおしゃれに過ごしながら?一日終了しました。本当に8ヶ月たったいまでも鮮明にしっかりと覚えてられるほど楽しかったです。いやー最高だった。


5日目【現地日2月23日の日曜】週末二日目

今日は、日曜日で修学旅行が始まって以来の初めての週末。今日はもちろん家族と過ごす日になっていて終日家族と過ごしたことについてレポートを書く決まりになっています。

僕のホームステイファミリーは家族代々キリスト教です。友達のファミリーにはイスラム教や地区が離れるとヒンドゥー教なんかも多くいます。中国系列の方、アジア人は仏教もいます。多宗派な印象です。

僕のファミリーは朝午前中に教会へ行きます。教会といっても最近のはポップに文化が変わり始めていて、神聖なお堅い教会というよりはどちらかと言うとライブハウス寄りの教会やクラブハウスに行って教会音楽を一緒に歌ったり、演奏したりすると言うのが、最近の主流というよりか流行らしいです。

教会の写真や入り口は撮影禁止ということでしたので撮れませんでしたが、中に入ると入り口エントランスに食べ物の日本で言う「フードコート」的なものが備え付けられていて、奥に入ると防音ライブハウスがあるイメージです。子供は耳の影響を懸念してかレストをつけています。中は300人ぐらいの人が座れる椅子が用意してあってそこでステージで教会音楽をみんなで歌います。ホストのお父さんはなんと教会音楽の音楽担当。つまり教会の運営なんかにも携わっている人です。ちなみに教会関連のお仕事になるには素性を調査して犯罪履歴がないかなどの審査がある場合が最近増えているそうです。

教会にはおばあちゃんや親戚など、それから同じ学校の友達などもいて比較的有名な教会なんだと言うことがわかりました。教会ではまずプロジェクターに教会音楽の歌詞が映し出されてそこで歌います。その場で歌いますが、皆さん両手をあげたり、右手をあげたりして歌います。日本は約6割が無宗派を言われていますが、海外との文化の違いにはこうした一面も大きいです。

その後説明があって何回か歌うなどを繰り返して終了します。やってる最中
外はスコールだったらしく雨上がりの幻想的なイメージがありました。

教会からでて家に戻りましたが、家に戻ってからはその日はくつろぎの日ということでくつろいでました。そこから遠くに出かけたりはせず、プールに入ったり遊んだりと。ブログを書いてまったり過ごしてました。英語のレポートもこの時に頑張って書きました。英語のブログはファミリーが教えてくれるので比較的わかりやすくかけましたが、文字数がそこそこある為に手こずりました笑笑

6日目【現地日2月24日の月曜】

6日目です。ESLという屋外特別授業が1日盛り込まれた少し特殊な日です。AJSPカリキュラムにはこうした実際に英語を話して無理矢理にでも会話させるといったシステムを取り入れて授業をします。

内容についてはプログラム上お伝えすることはできませんのでご了承ください。

家に戻ってからは、映画を見てそのあとは少し買い物をします。近くのスーパーに立ち寄ってクラスメートにも会いました。あんまり長く日本語で話しているとファミリーに失礼になるので手短に。

明日、7日目はゴールドコーストエクスカーション。つまり海のリゾート地に出向きます。リゾート地には車で自分たちの学校から高速を使って40分。初めに近くの動物園に行ってから行きます。この日は私服で向かいます。

7日目【現地日2月25日の火曜】

今日は私服を着て、ゴールドコーストという海へ向かいます。
ゴールドコーストへ行くには自分の火曜学校から車で40分ほど。多少距離はありますが、非常に綺麗な海と砂浜があってリゾート地として観光地化されています。ちなみに日本からは7250kmほどです。

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観光保養地として認定されているゴールドコーストは周りに日本語対応や中国語、世界のあらゆる言語に対応しているお店が多く、メジャーなマクドナルド、スターバックス、ハングリージャックス、寿司料理店などもあります。カラオケなどティーン施設から高齢者へのバリアフリー施設など優しい街として認知を誇っています。coral seaというだけあって珊瑚礁の海岸であるために水質はかなりいいです。ですが戦争で海戦があったことから沈没船などの噂もあるそうです。

自分たちはそれぞれのバスに乗って集合する役割になっています。朝は私服ですのでさっぱりと清潔感ある仕上がりにしました。香水はTPOを弁えて。

カメラはあいにく壊れていたので途中どこかで購入しようか考えましたが、そんなお金はありませんのでチェキを。チェキのフィルムもおバカ値段ですが、まあいいでしょう。

現地に集合してからはみんなでワイワイ楽しく過ごしていました。コロナの報道を気にしている人が多かったですね。2月の25日。ちょうど日本ではクルーズ船が大変なことになっているとか言っていて世界的な報道をされていたのは覚えています。どのくらいの人が感染していたのでしょうか。

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2020年2月撮影
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2020年2月撮影

ゴールドコーストでの写真の一部です。チェキですので画質に関してはご了承を。青い空でした。最初初めにバスに乗ると言いましたが、バスに乗っている間はずっと雨が降っていて動物園について降りる時にようやく晴れ間が見えてきたごろで、運が良かったです。

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当時のプレゼン用の写真素材ですね
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数少ない海での撮影です。友達が持っていたカメラ(ネオイチタイプ)をお借りして撮りました。

まずついてからは集合場所に集合して日本語対応のお店に行きます。完全日本語対応ですので中は普通に日本語で店員にはなしかけてもOKな場所です。そこから約4時間ほどは自由に行動できます。動物園では1時間と少ししか滞在することはできませんでしたが、レッサーパンダや孔雀などの日本ではあまりみれない貴重な動物が多くいました。お店から海へは直線で約200m。海のすぐ手前にマクドナルドがあります。そこでハンバーガーとポテトを食べましたね。海外の方が圧倒的に美味しかったです。マクドアルドは、日本のはなんか、ぱさってる感じで美味しくないイメージがしますが、海外のはジューシー感あってジャンクも舐めたもんじゃないなって友達と話してました。

友達と砂浜で遊んだり、海に入ったり、足を少し濡らしたりなんかはしましたが、相当海が綺麗で、沖縄よりも綺麗なぐらいの印象でした。そこも綺麗に見えますし、なんか空がすごく綺麗。そして広い。最高の場所でした。あそこは絶対将来もう一度行きたい場所でもあります。

その後はバスに乗って現地へ直帰。
ちょっと宣伝させてもらいますと、
帰宅してからはいつもと同じ流れですが、夜は映画を見て自分が自己紹介の時にかいたディズニークラシックを用意してくれました。1940年代のカートゥーンや1920年代のCinephone式ディズニー。RKO時代の映画だったり。アブアイワークスのFlip The Frogも見ました。これは専門的なのでもし興味があったらこのアカウントの記事もあるので見てください。

という感じでこの日は終了。夜は結構ぐっすり眠れました。少し疲れてたかな。

8日目【現地日2月26日の水曜】

かなり長いこと書いているのでそろそろ読み疲れている人いると思います。こっからはそんなに濃い話はないので安心してください。 今日は基本的には通常授業と同じ日なので特徴的なお話もありませんでしたので、すっとばします。もうあまりおぼえていませんがかぞくとなんかとらんぽりんとしたり料理をしていたようなきがします。友達が海外でモバイルできる人がいるらしく、その情報によると、コロナが日本で拡大されていて、休校になってずっといるんだとか。でもオーストラリアにいる人たちは勝ち組だねなんて話をしていました。

9日目【現地日2月27日の木曜】

といいたいところですが、この日は特殊なカリキュラムかつ、個人情報に干渉しかねないのでまとめることができません。ごめんなさい!

10日目【現地日2月28日の金曜】

涙が出てくるほど楽しかったオーストラリアを振り返っていますが、そろそろ終盤です。ホームステイの家の光景を思い出すたびに懐かしさに更けて、まじで涙が出そうです。この日は結構色濃く残っています。学校が終わった後に家族がパーティーをするからいっよにきてほしいと言われて,一緒に向かったんですが,そこがもう、YouTubeで見るような異国情緒そのもので本当に言えば超絶エモーショナルな感じの場所で、ピザを頼んでパーティーをしたんですね。現地の高校生や中学生子供と大人おじいちゃんからおばあちゃんまでみんなで計26人ぐらいで。

段々と車が増えて緊張していましたが、はじめはレミーのおいしいレストランやジブリに出てくるようなキッチンの方に向かって料理を食べていたんですね。
本当においしかったし最高でした。いや本当に。そのあとキリスト教に関する聖歌を歌うために集まるんですが、ギターの弾き語りでかなり長いことやっていたと思います。I時間半ぐらい。それでもすごく楽しかったですし、飽きなかったです。

子供たちとそこまで話はできなかったですが多少お話はできました。そのご日本について説明するように催促されてなんとか説明することになったんです。すごく難しかったけどそれはそれで良い経験になりました。そ

こではコロナウイルスのことはもちろん日本がどんな国なのか日本食はおいしいのだとか、景色は本当にいのかだとか。めちゃめちゃ話してました。そんなことをして夜の8時ぐらいに家に戻りシャワーを浴びて日記に記録して就寝。すごい気持ちよかったですし、この日の夜にスーツケース等の支度をしなければいけないのが本当に寂しくてたまらなかったのを覚えています。家の周りの雰囲気や香り、景色、風潮、全てが海外感があってかつ幻想的で素晴らしいものでした。

11日目【現地日2月29日の土曜日閏年】

車で今日は1時間ぐらいかけてサウスバンクの海へ行きました。都心です。この日が家族との旅行として最後になるかもしれないとのことだったのでこの日は存分に楽しもうと思いました。カメラもしっかりと持ち合わせて写真を持っていました。CCDカメラということを完全に忘れてましたが、すごいい写りをしていましたよ、リバーサルみたいな。

そこで日本の同じ学校のともだちと二人の友達と会ったんですね、調子はどうなんて軽く話していましたが、スコールで一時解散という状況に。女子ともすれ違ってたみたいで後々いたんだよなんて話しかけられました。全然分からなかったです。あとこの時高確率で韓国の方と間違えられたのですがそんなに韓国っぽいんでしょうかね、あんまり自覚はないです。中国の人とも良く間違えられますがオーストラリア自体かなり移民の特色のある国なので何人かを聞いてもそこから先に何か思惑があったりするわけではありません。普段の場合はです。このころはコロナの時期。

ファミリーも流石に警戒しているコロナウイルスのようで、アジアの方は大丈夫なのか連日テレビで報道されていることから帰国できないんじゃないのとおばあちゃんに心配されました。まじで帰国ギリギリでしたが。

その後の夜は子供はすっかり寝て閉まってお父さんとしずかにドライブを楽しみながら帰りました。マニュアルのエクストレイル最高です。

こんな感じで全編の10日間は終了です。いかがでしたか。現在追記で誤字脱字を修正していますが、現時点で公開しています。修正箇所がありましたらお知らせしていただけると幸いです。

後編3月の修学旅行後半は内容も非常に濃く、またカリキュラムとしても人生の岐路としても重要になってくるので長くなります。後半部分が完成したら下にリンクを貼っておくのでお待ちください。

それでは。

後半3月部分

後半の3月部分は実に文章自体を白紙に戻し校正を加えつつ再度作成しなおしています。

4年前の話でもあるためすでにいろいろな記憶があいまいになっているところが多かったです。だからこそ自分は旅行記、時によっては日記をつけるようなかなり凝った習慣を持っているのですが、最近はもっぱら忙しい日々が続きなかなかできておりません。凝った時にはタイプライター、忙しいときはPC打ちにして記録しています。それでもさらに忙しいときに写真で撮るという行為が存在してきます。

3月初めはホストファミリーとお別れをします。ホストファミリーと中で過ごしていく中で経験できたことや今度行かせそうなことはレポートとしてまとめ、提出するのが課題でもありましたし、サンキューレターの作成も当然礼儀の上でも気持ちの上でも書いておく必要がありました。

朝はまたオーストラリアの異国らしいパントースト、この日はベーコン、卵、チリソースのスタイルで朝食が取られました。

その後学校に向かう際にホストファミリーとはお別れをします。ここでサンキューカードを渡し、最後のお別れをします。チェキなどを撮影して改めて挨拶をして最後は車で送ってもらいます。この時に見えるシュレッダーする紙の用紙に次の学校の生徒情報が載っていたのは何とも残酷な話だなあとこの時身にしみて感じました。

学校に向かいまずはセレモニーを行います。セレモニーはいわゆる全校集会に近い形の表彰会でその際に自分たちが紹介されます。あまり個人的なことなのでこちらのお話は控えることにしますが、実にいろいろな経験ができて現地に実際に行って体験するという行為の強さ、経験値としての活かし具合がよく分かったと思います。

その後はさらにバスを走らせてオーストラリアのブリスベンの港から船で島へと行きます。世界で最も大きい砂でできた島、グレートバリアリーフのグリーンアイランドに行きます。

砂でできた島の上にホテルや観光施設が立ち並んでおりここに宿泊をします。1泊のみの少ないものではありますがレジャー施設や海の散策、ここでしか買えない特別な専門品などがあり基本的には観光客の憩いの場となっていますが、一部は別荘があり時々定住している方もいるようです。

ホテルは基本的にベッド、シャワー、電気ケトルなどアメニティはありますが、お湯の出は弱いもので水は飲めません。自分の場合はそのまま飲みましたが特に体調不良にはなりませんでした。ほかの宿泊メンバーの3人と別の部屋の4人はその後オーストラリア出発前に発熱と嘔吐、日本帰国後に風邪をひいたようなのでおそらくダメなんでしょう。私はその体調不良者の横でカップ麺とみそ汁の持参品を飲み食いしていました。外道。

海は当然海水は透明度が高く、とてもすっきりとしたコントラストでまさにビーチ天国。端の方に行くと使われなくなった船が座礁しており見る事もできます。

1日宿泊した次の日にはツアーが組み込まれています。

ツアーの内容はオフロードバスを使い砂山を駆け巡った後砂丘のある場所へ行き砂丘を何度も滑ってはのぼりを繰り返すアドベンチャー的なツアーです。

ただこの内容もプライベート的な部分が多くあまり伝えることができません。ご了承ください。

はしがき

もはやここがメインになるんじゃないかというぐらいの勢いで公開してから一時取りやめ、再構成で5年たって再公開するということになりますSvenです。当時は全く違う名前でやっていました。

当時はまだ名前も自分で考えたものでこのSvenというのは現地の僕の本名が非常に読みづらい日本人名であったことからアナと雪の女王に出てくるキャラクターの物まねをしたことであだ名がそれになったことから起因しています。

国際色で移民の多い国であるオーストラリアは基本的に様々な人種の人々が住んでいて差別的なことを悪としていますがその代わりにほとんどが進行する宗教を持つ国でもあります。

日本ではほとんどの方が信仰する宗教を持たないためあまりキリスト教で毎週のようにお祈りや教会に行くことはそうないと思いますが海外ではそれが当たり前でそれも生活の一部として組み込まれているというのは生活のんかあで一番感じた日本との文化相違だとは思います。ほかにも食生活や私生活にも違いは多くオーストラリアはほとんどの人がかなり早朝から行動することが多いです。日本ではあまり7時から仕事をするということはそうないと思いますが感覚的にはサラリーマンがそのまま7時に出社して働くといったイメージで近くにあったBunningsも6時30分には営業を開始していたりとかなり朝方な国でした。というのもこれは治安も関係していますがオーストラリアは決して治安が日本ほどいいわけでもないので家にいかなる場合であっても子どもは1人でおいていけはいけません。普通に通報されます。また隣人との関係性も強いので地域結束が強い日本でいう「田舎」な感じが結構都心部でも残ってたりします。さすがにマンションではそういうことは少なくなってきているでしょうが、あの広大な土地でマンションで暮らす人は大体が子供を持たないそうです。もしくはビジネス用のホテルだったり。

で14時を過ぎる頃には大体が学校の駐車場に車で両親が集結するかスクールバスで帰宅することになります。電車もありますがほとんどの場合学生は利用しません。そういう文化なのです。修学旅行生というよりは留学生扱いであった自分でも送迎は普通についてきます。

で、送迎のついでにどこかによったりするのが結構日常でした。図書館、モール、レストラン、場合によってはちょっとしたパークまで。

コロナ禍のギリ前の日常かつオーストラリアはこの当時感染者は数名程度、それも離党に隔離されるのでまだ本島にはウイルスは上陸していない判定でしたのでマスクなどは皆さんしていません。まさに異国の地の出来事である「日本と中国」の出来事を見ていた形になります。

結局帰国後はその後の通り。やはりすでに自分たちが成田に着いた時にはガラガラですし厳戒態勢でした。悲しいですがそのまま次の修学旅行生もキャンセルになっていましたし前述通り殺伐とした2020年以後を過ごしていくことになるわけです。

学生としての修学旅行の最大の思い出はやはりここらへんがピークでその後も一度だけ修学旅行はあったのですがそれでもかなりの行事はキャンセル。正直に言うと学生時代にこのような未曽有の事態を経験して大人になろうとしている今を見ると何かが欠落してしまったかのようなぽっかりとした穴、抜け落ちた感性があるかもしれないと考えてしまう性は直せないようです。

それでも自分より後のひとたちはそもそもの子の修学旅行ですら経験ができていないと思うと相当に貴重かつ有意義な経験であったことは間違いなくこれが今後に生かせることは現在大学生なった今でも強く感じます。

最後の方に早とちりになっていたツアーの話ですが、あそこだけで実は1人150万程度かかっているようです。ものすごい商売。当時豪ドル換算では日本がかなり円高だった影響もあり街中のモノを購入してもほとんど日本よりは安く買うことができています。さすがに向こうの国は水を飲む文化はそこまでなく、大体は「色付き」「しゅわしゅわしてる」飲み物が多いです。

自分は当時からチョコミルクのような異常に甘い飲み物を多く飲む体質でしたし今でもそうなのでここの島の中にいるときはほとんどそれを飲んだりしていました。島は島でいろいろ経験できることが多かったのは魅力でしたが、かなり暇な時間もありました。景色は最高で海も沖縄よりきれいだなこれ、ってレベルの透き通るものでした。そして何より暑くても湿度がない。これは日本と全く違うといっていいでしょう。

あれからもう間もなく5年。月日はものすごい勢いで流れました。5年というのは短いのか速いのか、時の流れを感じさせないほどの俊敏さで過ぎていきましたがなんとかやっています。「5年如きで往時を偲ぶには早すぎる」というのは常々ですが、現在は日本で過ごしていく過程でオーストラリアについてはほとんど考えない日常になりました、しかしもう少し円安が元に戻ったらオーストラリアはじめ、海外にも出向いて何も考えずに過ごしたりデトックス的に時間をただ浪費するのも悪くはないのかもしれないと感じます。肝心の英語力はどうなったって?そこはまた今度だ(いつになるだろうか)

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