[再]Kodakと富士フイルムで撮る長崎。Ft. FD 70-210mm f4
一丁前のタイトルを出していますが、ほとんどが友人のポートレートのために公開できる写真は少なめです。
自分は風景よりもポートレートが得意とするのであまり風景に対しての構図を瞬時に考えて露出を決めて撮影すると言う行為が難しく感じられました。
ポートレートは被写体さんとの意思疎通が最も大事では有りますが、風景は意志もないためにまず自分が全てを取り決めるとなります。
やはり精神的にはある意味では楽なんでしょうが失敗した時の喪失もそこそこ有りそうです。言葉にするのが難しいですが。
Ⅰ.当時の標準3倍ズームのFDレンズ
スペックも普通大きさも普通使い勝手も普通ないわゆる撒き餌レンズと呼ばれるこのレンズ。標準の3倍ズーム域で直進ズーム。開放はそれでも全域4でマクロもついていて最短撮影距離はマクロなしでも1.1m。スペックは今からしてみれば極端なほど普通ですが、この時代では高級と言ってもあながち間違いでは有りません。そして画質もLレンズとは流石に行きませんがそれでも健闘してます。
1980年発売のFDのうちのNewタイプではスピゴットへの着脱がしやすいように固定化されました。使っててこれもやりやすいものでした。ちなみにジャンクでの購入なので全くもって自分が勝手に分解して勝手にジャンクレンズで遊びました。ですがカビが一つ侵食していた部分でそれはカビキラーで大方は取ることができました。コーティングとの話し合いなのであまり長い間つけておくのもどうかと思い、そこで終了しています。
Ⅱ.長崎 2021年12月に。
今回の撮影地は珍しく遠征地長崎です。昼前に羽田から長崎への直行ではなくまず福岡に行ってそこからバスの乗り継ぎをして佐賀を経由して長崎へと行きました。これは修学旅行のプログラムです。まずはそこで自分のもう一つの記事にもあるサンレンズの写真を撮っていました。宿泊地は長崎のハウステンボスです。
Ⅱ-Ⅰ.長崎のもう一つのレンズの雑談
何というか、上の記事に題材されているサンの方は本当に大雑把に言ってしまえば
「それっぽいどこかエモい」
みたいな、いかにもな写りをします。ちゃんと説明をするならば
「明らかな周辺減光を持って歪みもしっかりそして滲みもありながら逆光のゴーストもフレアも盛大に出て当時の高倍率ズームを作る苦悩が垣間見える使ってて楽しいレンズ」
になります。まあ長ったらしいですね。後者の方がこの記事を読む方は好きだと思いますが。だからと言って別にサンレンズの画質がどうだとか当時はダメだとかそう言うことでは有りません。画質も特段悪いわけではないしある意味自分好みな写りをしてくれます。これが皮肉ってるって?そんなことを言っていたらオールドレンズを持つアイデンティティが失われてしまいますよ。好きなものを使いましょう。
それからこのサンレンズはF値が非常にテレ端だとf5.3と暗いものでピントを合わせるのには苦労しました。言ってませんでしたが今回使ったAE-1に関してはスプリットマイクロが外側で中央はスプリットイメージでやってたのですが少し暗くて大変でした。
じゃあマグニファイヤー使えばいいじゃないかと言われればそれで終わりなんですが、外で周りに生徒がいる中でマグニファイヤーでピントを追い込みで撮影、しかも絞り込み測光なんてしてたらそれはもう時間がかかりすぎで他の班の人間に迷惑かけてしまいますし。臨機応変にです。
Ⅲ.作例一枚一枚じっくりと。話を交えて見る。
長崎での市街の撮影です.長崎グラバー園に行くことを他の班員に提案したのですが、疲れるからと反対されたのですが押し切ってでも1人でも行くべきでした。そこだけが唯一この修学旅行では心残りです。
「男なのに市街3時間歩いただけでヘトヘトってどんな体力やねん、こっちでかいカメラ持って歩いとるんに頼りない」っていう今ではコンプラ的にもハラスメントでも絶対アウトなことを考えてはいました。市街でも素晴らしいものはもちろん十分に撮れます。
一応ですが情報も書いておきます。
初めにベタなめがね橋の一つでも名所として行っておこうかと思って降り立った場所です。早く行ったために自分達以外は誰もいませんでした。所々埃が写っていますがこれは写真屋さんのスキャニングですのでどうとも言えません。ポジはQSS-32_33なのでめっちゃ綺麗ではあるんですがこれはどのスキャナなんでしょう。もう記録も覚えていません。
黒潰れしないあたりはさすがです。こちらはX-TRAです。ちなみに期限が1年半すぎていますがそのままでも全然撮影できましたし劣化もありませんでした。とにかくフジのフィルムは劣化耐性が凄まじいです。ちなみに1998年ごろの家のフィルムは若干結露等でくっついたりしていましたがちゃんと像は残っていました。
めがね橋への長崎からの行き方は基本的に路面電車を使用します。そのため長崎市民の中でも自転車を使う人は極端に少ないです。本当に走っている人を全然見かけませんしサイクリングのお店も全然見かけません。それもそのはず、海の街です。坂がたくさんあるためあまり自転車での通勤通学は向いていないのです。そして歴史的にも自転車より交通機関として路面電車を使う方が早く便利に利用することができたのです。
長崎の原爆資料館や戦争遺構などは撮影が許可されていませんでした。そのため撮影はできませんでしたが当時の情勢や生活、面影など様々知れることができました。ああしたこともきちんと学んでおかないと将来の教養として役に立つ時に発揮できない可能性があるので体験は必須です。当然クラスの中には資料館をすっぽかしてさっさと遊びに行ってしまう方もいますが、学は大事です。
めがね橋はきちんと撮影することはできました。若干数オーバー気味かもしれませんが左側の影を考えれば妥当でしょう。
その後は出島へと向かうために歩いて徘徊。出島の通りのバス停のノスタルジックさが冬の日差しをあいまっていたために撮影。でも後から思いましたがもう少し後ろからとっても良かったですね。なんか構図が迷子になっている例です。
出島の表門橋から撮影したものです。意外にも明るく撮影できてSSも稼げたので満足していました。手ぶれがだんだん気になる時間帯となりつつあったので。冬でこうした場所は日差しがすぐに斜めになりますので低いISO値では少しリスキーです。
このフィルムはやはり黄色みもそうですが、適度な青のコントラスト感も好みです。後々掲載しますがフジの方はやはり赤がうまく再現されているので、それはもうポートレートには向いているフィルムだと思いました。もちろんKodakも元々黄色味が強いのでオールドレンズと組み合わせればいい暖色は引き出せるかもしれません。
木の色や周りの地面の彩度は特に好みです。このレンズの特徴でもある直進ズームはこうした細長い路地のような部分でも効果的に焦点距離を変更して撮影することができる点です。自分が意図している画角の収まりまで移動することなく素早く撮影できる点はズームの特徴であり最大の長所です。ほぼ開放に近いf5.6でしたがうまく空とのコントラストが決まりしまっています。大きな収差もなくにじみも少ない点はさすが当時の4通し、小三元レンズというだけあります。
さらに夕方になってくると一気に日差しが隠れ始めます。これはSS1/30sで開放です。ちょっとラティチュード範囲を超えましたがここの崖の葉の再現力にはこのレンズのいいところが出ていると思います。開放でこれだけはっきりと滲まず写ってくれるならフィルムとしては十分ぐらいです。少し電柱を見ればわかるように歪曲が発生しています。
登った先でまた降りました。ここは居酒屋などが立ち並ぶ裏路地のようなところで、表の長崎中華街とは少し場所が違います。雑居ビルなどが立ち並んでいます。風情を感じる昭和な印象を受けました。
おそらく一番低速での写真です。1/15sでf8まで絞り込みました。この電柱から伸びる線の量と看板の数がいかにも路地の居酒屋街を連想させます。表の長崎中華街とは全く雰囲気が違います。
そんな表の中華街の写真です。肖像権の都合上顔が他の写真では多く写ってしまっているので今回はここでの掲載は控えさせていただきます。どうでしょう。どちらも雰囲気としては好みの印象が取れます。やはり日光に当たる部分はこのコダックのフィルムは特徴がでます。これをどれだけ活かした撮影ができるかを考えてみるのもまた一興でもあります。
まるでみんなは話していなかったのですがこの地域、丸山と聞けばまず遊郭が多いことで有名です。そしてすぐ近くにもカステラの福砂屋の本家があります。丸山遊郭の建築物はどれも戦前を感じる歴史的な建造物が多く、撮ると楽しいかとおもいます。
とりあえず市街の写真はここまで。これ以外は最後に掲載します。
なかなか良い描写をしてくれるので自分はこれと単焦点があれば大方すむんじゃないかとか思ったりしています。便利ズームのFD系も一度考えたのですがどうせなら広角側は単焦点をもっと広げればいいだろと考えています。まあズーム系はサンと被ってしまってるというのも一つの理由です。
一気に二日目のハウステンボスでいきましょう。基本はこの日は最高でも12℃と長崎にしては12月の初めでは締まった空気感でした。朝も6℃前後と記録的です。ちなみに自分達が帰った翌日は初雪を観測しています。この日はそのあいにくの曇りでしたが午前中のみしか自由時間がないことを知って撮影しに行きました。ちょうど修学旅行の最終日のことです。二日目の市街地の撮影からこの期間は何をしていたのか。まあ夕食と夜の撮影です。夜の話は最後の雑談にでも話します。
上のハウステンボスのクリスマスツリーはとても大きくこの時はレンズの焦点距離上収めることが難しかったのでこのような構図で。ピント面の葉の部分や文字のキレはなかなかすごいと思います。この時はまた再び戻ってX-TRAです。
アモールとプシュケーのマウリッツの場面が彫刻で描かれた泉です。サンタが見切れていますがご愛嬌を。ここは完全に趣味領域ですのでその当時は同級生で知っている人はいませんでしたが、題材は上記の通りマウリッツです。超ざっくりいうなら愛のお話です。非常に官能的ですので簡潔に済ませておきます。
ここでは詳しい内容は控えておきますが、アモルは元々現世の人間で後に不死の酒を飲み神格化される者となります。
これは言うなれば即ち「神と人間との愛」や「神愛と人間の魂とその合致」を問いてるものや愛についての普遍性を語っています。
フィルムの名にもある母なるヴィーナスの子であるプシュケは一度アモルのためにと神への背きとなる過ちを犯しますが、それは最終的に許しを懇願し永遠の愛を誓うよう懇願してその愛は結ばれる。
要は何が言いたいかはわかるでしょう。永遠の愛という言葉の始祖を作り出したんです。この愛の誓いによって生まれた子供がpleasure、喜びというものになります。
詳しくは上のリンクを調べてもらって。そうするとこの泉がなんで愛にまつわる泉で皆が硬貨を投げ入れるかがよくわかるかと思います。知っている上で投げ込んでいる生徒なんて1人も見ませんでしたが…
脱線しましたがつづきです。
水の描写ではフィルムはデジタルよりも圧倒的な幻想感を醸します。これは特に高速側でも低速側でもいい意味で全くデジタルと描写が異なるため面白く見ていて鑑賞できます。奥に観覧車を見据えて泉の縁にレンズを斜めに置いて撮影しています。
サンタに関しては非常にうまくうまく撮れたと自画自賛したいものです、いやカメラがそういうふうに上手に撮ってくれたんでしょう。フィルムならではの粒状感はとても好みです。そして先述していたこの締まり具合はさすが富士フイルム、最高に良い写りをしています。シャープ感をコントラストも適度にかかり強すぎるビビッド感もなく心地いいです。
花時計の話もしたい所ですがまず上の写真から。限界を感じる開放での撮影ですが中央面のピント面はシャープであっても隅の方は流石に象の流れが起こっていて時代を感じる部分がようやく現れてきました。この部分はこれでもノスタルジックと割り切れば楽しめますし流れを活かせば望遠でのポートレート撮影に一躍してくれるでしょう。
花時計のものは根気を入れて撮影しました。他の方がいたためそんなに長くは撮影することができませんでしたが、花にピント面をとらえてうまく絞るだけでここまで綺麗に撮像してくれます。歪曲もこの作例では強くは感じません。
実はここら辺から霧のような天候状態になりあまり撮影には好ましくない条件になってきてしまいました。よってハウステンボスではここら辺で一旦撮影は終えてしまっていた気がします。結局そこでそのまま全部の撮影も終わらせてしまった感じでちょうどフィルムも使い切っていたのでお暇ということにしています。西洋建築であり歴史あるオランダ建築はとにかく異世界を感じさせます。
ちょうどその直前に撮っていた花もあります。
まさしく冬の花、薔薇です。紫から赤、ピンクなど様々な色のバラがありました。そしてこれはマクロモードで撮った薔薇の作例です。薔薇の花言葉はピンクの薔薇は「上品」「感銘」「Grace」などが存在します。一般的に赤い花のイメージの強いバラが花屋で買われてプロポーズをするというのは、赤い花の花言葉が「愛」に関連する花言葉だということからきています。
これで紹介をする作例は以上です。ここでも紹介していない作例は全てしたの部分に載せてありますので是非見てください。
Ⅳ.標準ズームって結局何がいいのか
今回使用したレンズは今やどこのリサイクルショップにも普通に転がって朽ちて行ってしまっているような本当にどこにでもあるレンズです。ありふれています。
ですがそのレンズを手にとって自分でこうして作例を作ってみると意外にも「お、こいつ全然まだまだ使える。自分好みに遊べるレンズ」と思えるようになります。
ある意味これが沼への入り口なのかもしれませんがこれが一興でもあるんです。
このレンズには特段の強いスペックもなくかと言って軽いわけでもなく現代のようなAFも効かない、だからこその面白さがあるんです。
諧調も彩度もコントラストもシャープ感もディテールも全て自分でレンズを決めて自分好みにできるという点はある意味、作品芸術の表現として存続させていかなければいけない重要な手段なのかもしれません。これは極端に大袈裟な例の一つに過ぎませんけどね。
是非中古でもジャンクでも修理ができるのなら一度持っておいても悪くないと思いますし、すでにLレンズをお持ちの方はこれを比較するために持っておくのも楽しみの一つです。
Ⅴ.後日談と雑談
後々気づいた話ではありますが高校2年のこの時期というだけあって当然のごとくカップルもいますし楽しそうなメンバーも多くいます。これは至極普通の出来事で偏見を持ってはいけません。自分は性格がひん曲がっている部分があるためにこれに偏見を持って斜に構えることがありますが、今はそうしたことはしてはいけません。多様性の時代ですから。
そのカップルをみて思うこともあります。薔薇の花言葉がどういったものかを知っていてプロポーズをしているのか、どうなのか。当然近くの人間で告白している人間もいました。泉の近くで男女で話している同級生も見かけました。自分は独学で心理のことや行動心理学、恋愛心理学、精神心理などを調べて論文を読んでいるのでこうしたことは常に頭の中にあります。人間がなぜそのような行動をしてどう考えているのか、どう思っているのか、これは写真を撮る時でも同じことを考えると思います。
そうするとちょっとした未来が見えるようになってきます。決してオカルトな話をしているのではありません。本当にその人間の予想できる行動を考えると、本当にそのように行動する時が増えるのです。居合わせると言ったらわかりやすいかもしれません。
そして自分に対してどう近づいてくる人間がいるのかもわかるので、自分への視線がどう向いているのかもわかるようになります。これの延長線がいわゆる「HSP」です。僕自身は違うと思いますけど。
HSPはすべてに気を使いすぎる特性です。その理論に自分は当てはまりません。ちゃんとどうでもいいと思うことがあるので。一時期自意識が過剰になりがちな高校時はそう当てはまるのでは?と調子に乗って思いましたが、教授に聞けば違う、と。
ただ観察能力は自信があります。キーチェーンを教室内で見つけた時、だれがいつどんな時にこんな話をしてこれを身に着けていた、だからここに落ちているキーチェーンはあの方の可能性が高い、と思い、その後にその人であったことをあてたことがあります。せいぜいそのぐらいです。
写真を撮ることに関して人が映り込む時、その人間がどう考えてこの写真を撮られるのか、どう映ることが今後に影響されるのか、どう思い出へとなって行くのかを考えた時にクラスメイトの人間を見ると妙に独特な感情になります。
風景やポートレートをプライベートで撮って出来上がった写真を見て崇高さや満足感にみたされるのももちろんいいことではありますが、身内のよく知っている人間を撮ってみると、それとはまた違う特別な思い出として残すという、無自覚の感覚が身について行動できるようになると言ったら収まりはいいと思います。表現が難しい。
そうした意味で自分の今考えている価値観においては尚更思い出を残すという考えになったときに、このクラスメイトとの信頼感はどう構築していくのが得策なのだろうと日々模索している学生なりの考えがありながら長崎では撮影していました。
デジタルとフィルムではよく写りなどが比較されフィルムの方がいいとかなんだとか色々な意見が飛び交いますがそうではないと自分は考えます。単に思い出を作ってそれを残すのであればそれはデジタルで撮った方がより多くの思い出が残るのでいいとはおもいます。
ですがフィルムで撮る時に重視することはなんだと考える時に今の時代の人は「コスト」ですが昔の人は「単に枚数」でした。
今でこそコストが嵩むからフィルムで撮ることは止むを得ず中断せざるを得ない状況になりがちですが、「枚数や制約」を気にして撮っていた時の方が、まだ写真を撮ることの大切さがよくわかると思います。
それにそれよりも前になると記録としての貴重な手段という最近ではその意義が失われつつあるようなものの原点まで遡ります。
つまり、フィルムで撮ることの意義は時代によって変貌していることを理解した上で今の時代にフィルムを使うことの意味を提示できるような写真を撮ることもまた重要なことであると考えます。
難しい雑談はこのぐらいにして後日談はそのうち書き足したいと思います。
後日談の書き足しです。実に初めの構想から3年たっています。
この時の自分から考えはほぼ変わっていません。むしろ上記のような考えはさらに世論が加速させました。結局、全体を通して言いたいのは何を根拠にどう動くかが重要なこともあるし、そうでないこと、そう思わない方が楽しめるのでそのぐらいの緩さを持っていた方が案外うまくいく。ということです。
何も泉の話を知っていてもいなくてもプラスになるか、マイナスになるか、という話でもないですし、直接の影響はありません。他人の行動もぶっちゃければただの自己満足の趣味の域を出ないもの。でも無意味ではない。知っていてプラスになる、知っていて腑に落ちることもあればそうでないこともある。そのぐらいの感覚で生活していた方が案外幸せなこともあるのかもしれません。
大学では経済と心理の結びつきについて考える勉強を行っています。経済思考から人の消費行動や生活意識について考える。少し前の心理の独学からアップデートされつつ論文を漁っては読み、を繰り返しています。読んでいるとこのころのみんなの行動がどういう行動なのか新しい視点で少し解釈できるようになった気がします。