母と向き合えなかった17年間と私のこれから
母が亡くなった数日後2023.2.19に書いてそっと下書き保存されていたものです。ふと今年の目標でも描こうかなと開いて読んだら自然と涙が出ました。そんなこんなで、また目標はかけずでした(笑)
いまこの想いをを書けと言われても書けないと思います。そのときの感情、そのときの気持ちを大事にしたいと思えた瞬間でした。言葉に残すことは辛いこともあると思うけど、そっと下書きに保存しておくのもいいなと思いました。
世の中に公開するような話でもないのですが、こんな人もいるのだな〜 くらいで読んでもらえたら。私視点の母との記録です。
先日母は突然呆気なく天国へと旅立ってしまいました。生死に関わるような持病はなく、本当に突然の心筋梗塞のようなものでした。
突然死で苦しむことがなかっただろうということと、そして自宅で倒れるなどして他の家族が自分を責めるようなことがなかったこと、それが唯一の救いです。
母は私を出産してから精神疾患をわずらい、長きに渡り病気と闘ってきました。いわゆる産後うつから、躁鬱病へ。母は31年という長い月日を乗り越えました。
今でこそ、鬱病という言葉を耳にする機会は多いですが、当時はなかなか理解もされづらい環境だったのではないかと思います。
入退院を繰り返しながらも、薬の調合がうまくいけば仕事も順調にいったり、当たり前の日常生活が送れることもあったと思います。私の幼少期は少なからずそうだった記憶です。
母が通院していること、幼少期に母と病院で面会している写真があることで母が病気であることは知っていたものの、私自身が母の病気をしっかりと自覚したのは中学2年生14歳のときでした。引っ越しを済ませたあと、母の様子がおかしくなりました。
家族みんなが押さえつけながら病院へ向かう姿は今でも頭から離れません。この状態は当事者か同じような経験のある方にしか想像がつかないと思います。普通の家庭だと思っていたのが、普通の家庭じゃないんだ、と思った記憶があります。
今思うとこの頃からあまり病気が改善されなくなった気がします。体調と薬の影響などもあり、働けなくなり、家事もできないこともありました。母が入院をしている時は、父子家庭のような状態。高校時代のお弁当は毎日父が作っていました。
話が噛み合わない、話をしても伝わらないことも増え、母との関わり方がわからなくなった私は高校生ごろから口数が少なくなり、何か話したいことがあると父と話すようになりました。大学生・社会人になってからは、母に伝わる話はないとほとんど私から話を持ちかけることはなくなりました。
母にどうすればもっと優しく接することができるのか、昔のように会話ができるのか、私には分かりませんでした。母と向き合いたくても向き合えない、母と話したくても上手く話せない、そんな十数年でした。
嬉しいことがあると、躁状態が出てしまい、眠れなくなり体調を崩す。私が実家に帰る度、私のライフイベントが起こる度に母は体調を崩しました。母に喜んでほしい、私がそう思うことが許されないかのように。
思春期真っ只中の母の入退院。上京時の引っ越しには両親で来てくれたものの母には東京の環境が合わず体調を崩し、入学式の出席をやめ帰宅。大学の卒業式も誰も来ない。東京での私の生活に口出しもしなければ、見にも来ない。自由で嬉しい反面、ひとりっこでもある私はどこか心細い気持ちもありました。決して大切にされていないわけではないけれど、友人の親を見ると差を感じていたことは間違いありません。持病を抱える、ましてや産後うつで体調を崩した母に頼ることなど出来ず、もちろん里帰り出産なんてできませんでした。それでも明るく気丈に振る舞い続けていたと思います。母の病気は私をいつでも強くたくましくしてくれました。
生活やお金の面では父の苦労あって、不自由をしたことはありませんが、私の想像としていた家族像ではなく、精神的に自立せざるを得ない環境でした。しかしながら、普通の家庭じゃないかもと思っていた私の生活は私にとっては普通になっていました。
ここ数ヶ月は母と向き合えなかった長い月日を覆すような日々を少しだけ過ごしていました。母に孫を見せることができたからです。母は毎日毎日、用もなく電話をしてきていました。これも病気のせいもあるのですが、育休中で時間があったためいつも以上に話すことができていました。孫を理由に私からも連絡ができました。私も子供が産まれたからか、母の電話での対応もいつもより優しくできていたと思います。育休中だったからこそ、葬儀の後も家族と長く一緒にいられました。
几帳面で周りのことがよく見えていた母は、私が生きていく術を小さな頃から叩き込んでくれていました。母の口癖は「一人っ子だからと言われるのが嫌」で一人っ子と思われないように私を育てだそうです。九割五部くらいの確率で兄弟がいると思われるので、母の教育は間違っていなかったと思います。
そして母の病気は私をポジティブにしてくれました。ただ明るい前向きというよりは、いつしか物事を良い方に良い方に捉える癖がついていました。
母から最後にかけられた言葉は「周りの人は子供より孫が可愛いっていうけれど、わたしは孫よりも娘の方が可愛い!」でした。いつもストレートに愛情表現をしてくれた母のおかげで自己肯定感も高いタイプなんだろうなと思いました。
本当はもっと孫の成長も見てほしかった、これから挙げる結婚式にも出席して欲しかった、もっと優しくしてあげたかった、まだ先があると思ってやりたかったことはもう叶いません。でも私が目の前を精一杯生きた結果です。ああすればよかった、こうしたかったよりも、これでよかったと思いたい。
母の病気を通して、病気を治せるお医者さんになる!というような立派なことは私には言えません。
母に優しくできない分、私の周りにいる人には少しでも優しくしたい、そう生きてきました。
私の周りで困っている人がいたら助けたい、私と出会った人が少しでも幸せになれたらいいなと思っています。余計なお世話やお節介をしてしまうことも多々あります。半径200mくらいの中にいる人には私と関わることで少しでも幸せが降ってきたらなと思います。
見返りがなくてもいい、周りにいる人がハッピーで幸せになってほしい、いつも私は偽善者なのか?と自問自答をしていましたが、母と過ごした時間を振り返って本当に思っていることだとわかりました。これからもお節介だと言われても、周りの幸せが少しでも増えるような生き方をしたいと思います。誰にでも優しくというより、寄り添える人になりたいと思います。
もう母からの用のない電話がかかってこないのかと思うと本当に寂しいし、愛おしいです。私は病気になった後の母にしか会ったことがありません。病気の母も母なのですが、もし来世で母に会えるのであれば、病気になる前の母と楽しくおしゃべりがしてみたい。